倭の五王の比定3(No.160)

更新日:2020年05月06日

 菅政友さんは、世子興=市辺押磐皇子説の他にもう一つ重要な指摘をしています。それは『宋書』文帝紀元嘉7年(430年)の王名を欠く朝貢記事の解釈です。菅さんの想定した歴代天皇の在位年すれば、430年は履中天皇の在位中にあたることから、この朝貢は履中天皇の事績であるとし、宋書はたまたま名前を書き忘れたとしました。つまり、讚と珍の間にもう一人の倭王がいたと主張したのです。そうすると、倭国伝の「讚死して弟珍立つ」の記事と矛盾するのですが、菅さんのそれに対する説明はありません。 

 

 1907年(明治40年)久米邦武さんが『日本古代史』を著し、興=木梨軽(きなしのかる)皇子という新説を世に問います。木梨軽皇子は、允恭天皇の長男として次期皇位を約束されていたのですが、同母妹の軽大娘(かるのおおいらつめ)皇女とタブーを破って通じたなどとして、次男の穴穂(あなほ)皇子(のちの安康天皇)によって廃された人物です。

 

 久米さんは、高句麗征伐の準備の一環として宋への遣使を予定していた允恭天皇が459年に急逝したため、発信人を当時皇太子の地位にあった木梨軽皇子=世子興に改め460年に遣使したと推定したのです。その後まもなく木梨軽皇子は穴穂皇子によって廃されるのですが、この政変を知らない宋は462年に世子興に安東将軍を授けたと解釈したのです。

 

 久米さんのこの独創的な説は、平均年率(歴代天皇の生年月日の平均差から求めた2223年という数値)と内外の外交関係記事による年代観にささえられ、菅さんらの古事記干支重視の立場とは一線を画していました。

 

 ただ、他の四王の久米さんの比定は、菅さんらの主張する讚=仁徳天皇、珍=反正天応、済=允恭天皇、武=雄略天皇と結果的に同じでした。

 

 その後、この問題については、白鳥清、太田亮、橋本増吉、池内宏さんなど多くの日本史・東洋史の碩学が所説を発表されています。その根拠はそれぞれにあるのですが、結論的には、珍=反正天皇、済=允恭天皇、興=安康天皇、武=雄略天皇は共通し、讚の比定を仁徳天皇と履中天皇のいずれにするかに違いがあるだけでした。

 

 五王の比定論は、ほぼこのように固まりかけていた感のあったとき、前田直典さんが大胆な新説を発表されたのです。戦後間なしの1948年(昭和23年)のことでした。この説は「応神天皇朝といふ時代」と題して『オリエンタリカ』創刊号に掲載されました。

 

 前田さんは、『宋書』に記載する珍と『梁書』に記載する彌のいずれが正しい王名表記なのかという点に着目したのです。前田さんは、多くの中国史料にあたり、この字が弥、珎、*、〓とも表記されていることを突き止め、これらの変化は、本来彌であったものが、書き写されていくうちに珍へと誤写されたと結論したのです。

 

 さらに前田さんは、『宋書』倭国伝の武の上表文にある祖にも注意を向けます。これは本来、武の祖父なる彌という意味で記したものを彌という人名に慣れない中国人が一般名詞の祖禰と誤記したものだろうとしたのです。

 

 そうすると、武=雄略天皇の祖父の彌は仁徳天皇ということになり、讚は応神天皇、済は允恭天皇、興は安康天皇という結論にいたったのです。

 

 この前田さんの新説は、停滞気味であった五王研究に新風を巻き起こし、一時は定説になったような感がありました。しかし、数年後には橋本増吉、近藤啓吾、丸山二郎、井上光貞さんなどの強力な反論にさらされるところとなるのです。(つづく)

2003.7

※文中の*、〓は外字です。以下の画像にある漢字が入っておりました。

漢字

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岡ミサンザイ古墳

倭王武の墳墓を目される岡ミサンザイ(仲哀天皇陵)古墳 (藤井寺市)

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