倭の五王の比定4(No.161)

更新日:2020年05月06日

 前田説の登場によって、五王比定問題は、活況を呈し、より精緻な議論を呼びましたが、決定論が出たわけではなかったのです。

 五王比定を江戸時代からの長い研究史をふり返ってみてきたわけですが、主な比定説をまとめておきますと、

讚=履中天皇、仁徳天皇、応神天皇の各説

珍=反正天皇、仁徳天皇の各説

済=允恭天皇説

興=安康天皇、市辺押磐皇子、木梨軽皇子の各説

武=雄略天皇説

となります。

 済=允恭天皇、武=雄略天皇は各説とも共通なのですが、残る三王については、意見が分かれています。特に讚については、見解の違いが大きいところです。したがって、五王の比定問題は、今にいたっても定説がないという状態なのです。

 ここまでの五王と天皇名の比定の問題については、笠井倭人さんの著書『研究史倭の五王』を主な参考文献にさせていただきました。

 結論の出ないこの問題にしばし別れを告げて、見方を変えてみようと思います。倭の五王が葬られた古墳を特定することができないかという問題です。

 倭の五王の在位年は、『宋書』などの記録によってその一点を知ることができます。一方、日本の巨大古墳は、最近の考古学的な成果を総合すると、その築造年代をかなりの精度で絞り込むことができるようになってきています。この両者をすり合わせると、いくつかの巨大古墳の被葬者名が浮かび上がってくるのではないかという期待があるのです。

 まず、巨大古墳の築造年代なのですが、これには、最近研究の進展がめざましい円筒埴輪の編年研究が活用されます。ご承知かと思いますが、巨大古墳のほとんどは、天皇陵や陵墓参考地などに治定され、立ち入りが制限されている状態です。しかし、こうした治定の範囲は、たいてい本来の古墳領域の内側にとどまっています。ということは、外周部の住宅開発等に伴った発掘調査をすると、古墳の外堤に立てられた円筒埴輪が出土することがあるのです。円筒埴輪は、初期の古墳から終わり近くの古墳まで用いられていますので、これらを比較研究すると、ほとんどの巨大古墳の年代を測る物差しができたのです。このおかげで、今では、巨大古墳が造られた順序は、研究者の間で大きな意見の違いがないところまできています。

 ただ、この研究で求められるのは、どちらの古墳が古いか新しいかという相対年代なのです。そこからは古墳が造られた実年代はでてこないのです。したがって、この問題は別の方法でアプローチする必要があるのです。

 倭の五王に関係する実年代を考える資料は、そう多くはありません。その一つは、埼玉県さきたま稲荷山古墳から出土した鉄剣に刻まれた銘文です。この銘文には、辛亥年(しんがいねん)という年号が含まれていたことが重要なのです。この古墳からはTK47型式という須恵器も出土していて、その須恵器に実年代を与えることができれば、巨大古墳の実年代を知る大きな手がかりがえられると期待されるのです。

 ただ、辛亥年(471年)につくられたこの鉄剣が直ちに須恵器とともに古墳に埋められたのかどうかは検討を要します。銘文では乎獲居臣(おわけのおみ)が自らの家系と事跡を高らかにうたっています。そうすると、鉄剣は製作後、いく年かは乎獲居臣の身辺を飾っていたと考えるのが自然だと思うのです。ただそれが何年間であったかは分からないのですが。

2003.08

さきたま稲荷山古墳鉄剣銘文トレース

さきたま稲荷山古墳出土鉄剣銘文トレース

(埼玉県教育委員会編1980 『埼玉稲荷山古墳』より)

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