巨大古墳の築造年代3(No.164)

更新日:2020年05月06日

 この巨石は古く梅原末治さんが学会に写真付きで紹介しています。最近では宮内庁が周辺を調査をしています。その報告によると、巨石は後円部背面のほぼ中段にあって、長辺約4メートル、短辺約3メートル、厚さ約2メートルの花崗閃緑岩(かこうせんりょくがん)だということです。石の周辺にはこれに連なる石材はなさそうで、この場所に横穴式石室はないだろう、ということでした。ただ、こうした石質の巨石は生駒西麓の高安山以北に露出していることが知られていますので、この地まで運びこまれたことが考えられます。一体なんのためにでしょう。考えられるのはやはり巨大な横穴石室の構築用石材ということです。石室を作る途中で作業を中止してしまったのか、でき上がった石室が何らかの事故で崩壊してずれ落ちたか、用材として不要になってしまったのか、いずれかの理由で現在の場所にとどまることになったのではないでしょうか。

 河内大塚古墳は、これまでの調査で円筒埴輪が使われていないか、使われていたとしても少量だろうという指摘もあります。

 巨大な横穴式石室を持ち、円筒埴輪がほとんど使われていないとすれば、その築造時期は6世紀後半をさかのぼることはないだろうという想定に結びついて行くのです。

 ただ、この河内大塚古墳をめぐっては少し気になる情報もあります。一つは明治33年にこの古墳を訪れた浜田耕作さんは「周囲に堀あり、埴輪の破片各部に散乱す」と報告しています。

 いま一つは、堺市日置荘(ひきしょう)埴輪窯で製作された埴輪の主な供給先がまだ見つかっていないことです。日置荘産の円筒埴輪は大型で特徴的な作りをしていますので、小さな破片でも区別できるのですが、今のところ百舌鳥、古市の大型古墳に使われたことが確認されていないのです。ことによると、供給先が河内大塚古墳ではないだろうかと思っているのです。

 ということで、島泉丸山古墳は5世紀中葉を下らない、河内大塚古墳は6世紀後半をさかのぼることはないとすれば、5世紀末と想定される雄略天皇陵とすることは困難だと考えたのです。

 雄略天皇陵を考えるときに時期以外の問題としては、陵地の所在地として『古事記』、『日本書紀』、『延喜式』のいずれもが「高鷲」と記している点があります。現在の行政区画をみると、羽曳野市高鷲の北に羽曳野市島泉があり、ここに島泉丸山古墳があります。また、高鷲の西は藤井寺市藤井寺が接していてここに岡ミサンザイ古墳があるのです。現代の行政区画をそのまま古墳時代の地名に当てはめることはできませんが、当時いずれの古墳も高鷲にあると認識されていていたとしても不思議ではないと思うのです。

 さらに、高鷲と陵の間に記された「原」に注目してみましょう。「原」は原野あるいは荒れ地を指す一般名称です。岡ミサンザイ古墳は羽曳野丘陵からつづく高台にあって、古墳築造前は原野、荒れ地だったでしょう。一方、島泉丸山古墳は岡ミサンザイ古墳がのる高台の延長上にありますが、標高では15メートルほど低くなり、周りは耕地として使える土地だったと考えられます。 

 とすると、「原」の字から考えると、高鷲原陵としてふさわしいのは、むしろ岡ミサンザイ古墳ではないでしょうか。

 地名考証からこれまで島泉丸山古墳が絶対有利だと考えられてきたのですが、よく検討すると、逆に岡ミサンザイ古墳のほうに合理性があるように思えてくるのです。

 ということで、倭王武=雄略天皇の墳墓は、岡ミサンザイ古墳が現在のところ最有力候補だと考えています。

(つづく)

2003.11

河内大塚山古墳

河内大塚古墳(羽曳野市教育委員会提供)

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