倭王武の時代(No.165)

更新日:2020年05月06日

 倭の五王の最後に列した武、雄略天皇を古代の人々は、なかなか印象深い、個性的な人物だと見ていたようです。今回はそれを物語る二つの話を紹介したいと思います。

 「籠(こ)もよ み籠持ち 掘串(ぶぐし)もよ み掘串持ち この岳(おか)に 菜摘ます児 家聞かな 名告(なの)らさむ・・・・」

 若菜を摘んでいる乙女に、家や名前を教えてくださいな、と呼びかける歌です。古代では、女性が男性に家や名前を知られると魂を支配されると考えられていましたので、結婚の相手にしか本当の名前は言わなかったのです。ですから、家や名前を聞くというのは愛の告白を意味するのです。

 これは『万葉集』の冒頭歌ですが、作者をご存知でしょうか。雄略天皇なんですね。雄略天皇の蛮勇豪胆なイメージからすると、この歌のもつ初々しい情感は何かそぐわない気もします。でもこれも雄略天皇の一面として古代の人々は尊重していたのです。

 もう一つは、平安時代の初期に編さんされた日本でもっとも古い仏教説話集『日本霊異記(にほんりょういき)』の上巻(かみつまき)の第一話に収録された「雷を捉える縁(えに)」です。

 この話を要約すると次のようになります。

 昼間、天皇と后が磐余(いわれ)宮の大安殿で交わっているとき、小子部栖輕(ちいさこべのすがる)という名のおそば仕えの侍者がそうとは知らずに部屋に入ってきてしまいました。その時、空に雷がなり、天皇は照れ隠しもあってか栖輕に「雷神を連れて来い」と命じたのです。分かりましたと言った栖輕は、宮から出て、緋色の鉢巻きをし、赤い幡を立てて馬に乗り、雷神探しに出かけました。

 栖輕は大声で「天の雷神よ、天皇がお呼びだ」と叫びました。さらに「雷神といえども、天皇の命令をきかないことはできないぞ」といったところ、豊浦寺(とゆらでら)と飯岡の間に雷が落ちたので、輿籠(こしこ)に入れて宮に持ち帰りました。天皇はピカピカと強い光を放つ雷をみて、恐ろしくなり、たくさんの幣帛(みてぐら)を捧げて、雷を落ちたところに帰したのです。その場所を雷の岡(いかずちのおか)と呼んでいます。

 その後、栖輕が亡くなったとき、七日七晩もがりをして、彼の忠信ぶりをしのび、雷の岡に墓をつくり、「雷を取りし栖輕の墓」という碑文を入れた柱を立てました。雷はそれを恨んで柱に落ちたのですが、柱の間に挟まって七日七晩捕らえ続けられました。そこに天皇の使いがきて「生きても死にしても雷を捕へし栖輕が墓」と碑文を書いた柱を立てました。

 栖輕が亡くなってからの後段の話は、『日本霊異記』の編さん時に栖輕の忠信ぶりを強調するために付け加えられた可能性がありますが、前段の部分は、ほぼ同じ内容の話が『日本書紀』にも登載されています。

 当時、雷神はもっとも恐れられていた神だったのですが、雄略天皇はそれを捕まえるという荒唐無稽なことをやってしまったというのです。つまり、自然の神の代表格だった雷神をも自らの支配下に組したことを示したのです。つまり、雄略天皇が治天下大王として君臨するにいたったのは、天皇の類いまれな資質に由来することをこの説話は象徴的に物語っているのでしょう。

 『万葉集』や『日本霊異記』の編さん時期は、雄略天皇が亡くなってからすでに250年以上も経過しています。両書の冒頭を雄略天皇が飾っているということは、奈良時代や平安時代の人々にとっても雄略天皇が歴代天皇のうちの特別な存在として意識されていた証だと思うのです。

2003.12

古市古墳群南西部

古市古墳群の南西部の前方後円墳は多くが6世紀代に造られました。

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