倭の五王と大阪1(No.166)

更新日:2020年05月06日

 昨年の秋、大阪は阪神タイガースの優勝で大いに盛り上がりました。それによるカンフル効果がどれほどだったのか分かりませんが、大阪の経済が本格的に立ち直るにはもう少し時間がかかりそうです。

 倭の五王の時代には、大阪を舞台にいくつもの国家的プロジェクトが展開され、それまでにない活況を呈したことが分かってきました。最近のデータを含めて、予測も交えながらですが、昔むかし元気だった大阪の実態に迫ってみようを思います。

 本題に入る前に、古墳時代の大阪の地形環境が、現在とはかなり違っていたことを頭に入れていただきたいと思います。その一つは、大阪湾の海岸線がかなり奥まで入り込んでいたことです。大阪城のある上町台地のすぐ西側にまで海岸線が迫っていたことです。二つ目はその上町台地の東側には、淀川と旧大和川水系の河口一帯に河内湖とよぶ水深の浅い大きな湖が広がっていたことです。こうした大阪湾岸と河内湖沿岸を背景に複数の国家的プロジェクトが同時に進行したのです。

 まず、特徴的な六つのプロジェクトを列記し、次にそれぞれを少し詳しくみていくことにします。

 その一は、河内湖の南部における巨大古墳の築造です。東側に古市古墳群(羽曳野市・藤井寺市)、その西方10キロメートルの百舌鳥古墳群(堺市)であります。両者には大仙(仁徳陵)古墳、誉田御廟山(応神陵)古墳という破格の規模の前方後円墳を筆頭に巨大古墳が続々と築かれました。

 その二は、現在の柏原市大県(おおがた)一帯に稼働した鉄器生産工場です。農工具や武器の素材に鉄は欠かせません。鉄器の技術革新の成否や生産量の拡大は、政権維持の生命線だったのです。大県の最新で大規模な生産工場は、倭政権が直轄したと考えられるのです。

 その三は、百舌鳥古墳群南方の泉北丘陵における須恵器生産です。古市・百舌鳥古墳群の成立からもまなく、朝鮮半島から工人を迎えて須恵器づくりが始まりました。以来泉北丘陵は平安時代にいたるまで窯業生産の中心地でした。須恵器は登り窯で高温に焼き上げた硬質の土器で、それまでの土師器に比べると耐久性や保水性が格段に優れていました。これも倭政権が主導したプロジェクトだと考えられます。

 その四は、河内湖の東部、枚方台地から河内湖岸を中心とする馬生産です。河内の牧とよばれたこの拠点では、馬の生産から調教、馬具製作にいたるまで軍用馬に必要とする一貫した工程が実施にうつされました。これも倭政権の肝いりで朝鮮半島から渡来した人々の技術指導のもとに運営されたのです。

 その五は、河内湖の西部、上町台地の頂部につくられた巨大倉庫群の存在です。発掘調査で明らかになった分だけでも一棟の床面積が90平方メートルの倉庫が16棟も整然と建ち並んでいたのです。倉庫群全体の規模は計り知れませんが、その立地条件からすると威圧的と映るほどの景観を形作っていたことは間違いないでしょう。

 その六は、住吉津(すみのえのつ)や難波津といった港湾施設が整備されたことです。外交や交易の拠点として大阪湾岸に本格的な港が整備されたのもこの時期だと考えられるのです。

2004.1

5世紀の大阪湾岸

5世紀の大阪湾岸の地形と遺跡群

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