倭の五王と大阪2(No.167)

更新日:2020年05月06日

 では5世紀の大阪平野に展開した6つの巨大プロジェクトを順番にみていくことにしましょう。

 まず1番目は、何と言っても古市・百舌鳥古墳群の造営でしょう。その威容は、1600年以上の時間を超えて今も目の当たりにすることができます。

 大王の墳墓と考えられる巨大な前方後円墳は3世紀の中ごろの奈良県桜井市の箸墓古墳にはじまります。以降、巨大な前方後円墳は、奈良盆地の東南部(磯城古墳群)、次いで奈良盆地の北部(佐紀古墳群)で造られ続けます。そして、4世紀の後半に突如巨大な前方後円墳が大阪平野に登場するのです。百舌鳥古墳群の乳岡(ちのおか)古墳と古市古墳群の津堂城山古墳です。

 もちろん、これらの古墳が造られるまでにも大阪平野には前方後円墳が造られていました。南河内では玉手山古墳群が有名ですが、これらは山の起伏を利用して築かれ、大きさも100メートル前後の前方後円墳が標準でした。ところが、百舌鳥・古市古墳群では墳丘の長さが200メートルを超える巨大前方後円墳が続々と造られたのです。しかも、それらの周りには深い濠がめぐらされ、さらに堤が取り囲むといった念の入った造りだったのです。

 それまでに造られた奈良盆地の巨大前方後円墳と比較すると、大仙(仁徳陵)古墳や誉田御廟山(応神陵)古墳に見るように墳丘規模が極限まで拡大されることと津堂城山古墳で初めて実現された複数の濠と堤で墳丘本体を取り囲むとった新しい企画が目に付きます。

 これらは、本来巨大古墳が持っていた荘厳さや隔絶性を一層際立たせる意図をもったものだったのでしょう。

 4世紀後半から5世紀にかけては、百舌鳥・古市古墳群と平行して、奈良盆地北部の佐紀古墳群や盆地西部の馬見古墳群でも巨大古墳の造営が続けられていました。しかし、20年刻みで、各古墳群の巨大前方後円墳を整理分類すると、各時期の最大の前方後円墳はつねに百舌鳥古墳群か古市古墳群に属していることが分かります。

 つまり、この時代の大王の墳墓は、百舌鳥古墳群あるいは古市古墳群に造られたのです。ということは同時代に活躍した倭の五王の墳墓も百舌鳥・古市に造られたと考えて間違いないでしょう。

 大王墳の造営地が奈良盆地から大阪平野に移ったことは、河内王権論をはじめとする幾多の議論を呼んでいます。ここでは、百舌鳥古墳群と古市古墳群に少し注目してみようと思います。

 どちらも大王墳と目される巨大前方後円墳を複数含み、中小規模の前方後円墳や円墳、方墳を合わせて総数約100基から構成される点は非常によく似ています。しかし、その形成過程をみると、古市古墳群が各時期にまんべんなく大中小の古墳を造り続けるのに対し、百舌鳥古墳群は百舌鳥陵山古墳(履中陵)と大仙古墳(仁徳陵)が造られた4世紀末頃と中頃の二時期にピークがみられるという違いがります。

 倭の五王が血縁によって結ばれているとするならば、百舌鳥と古市にまたがってその墳墓が築かれた事実は、両古墳群の造営を主導した集団が単一だった可能性が出てきます。そうすると、百舌鳥古墳群の形成過程の謎も解けそうな気がしてきます。

 いずれにしても、大阪平野に出現した百舌鳥・古市の巨大前方後円墳の存在は、大阪湾から河内に入り、一路大和を目指した人々の目に倭王権の強大さを強烈に印象付ける役割を担ったに違いないでしょう。

2004.2

世界の王墓と大仙古墳の比較

一瀬和夫監修2000『古墳の研究』(調べ学習日本の歴史2)ポプラ社 より一部改変

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