倭の五王と大阪3(No.168)

更新日:2020年05月06日

 2番目はお隣の柏原市大県(おおがた)一帯で展開した大規模な鉄生産です。

 鉄生産といえば、重厚長大、時代遅れの産業のようなイメージがつきまといますが、今私たちの身のまわりから鉄製品をすべて取り除くことはほとんど不可能です。一昔前のように製鉄所が近代化のシンボルだった時代は過ぎましたが。鉄製品は今でも私たちの生活を根底で支え続けています。

 日本列島の人たちがはじめて鉄の存在とその威力を知ったのは弥生時代でした。朝鮮半島からもたらされた鉄の道具は、斧や小刀のたぐいでした。それらの刃の鋭利さはもちろんでしたが、目をみはったのは耐久性に優れていて、しかも再生が可能という点でした。刃の鋭利さという点では、黒曜石やサヌカイトの打製ナイフも決して劣るものではありません。でも、実際に使ってみるとすぐに分かるのですが、石のナイフはすぐに刃こぼれをして鋭利さが持続しません。

 これに対して、鉄のナイフは刃に粘りがあって、刃こぼれしにくく、多少の刃こぼれは研ぎ直しによって鋭利さを取り戻すことができます。

 利用範囲の広い鉄をできるだけ多く確保することが各地の王の共通した願いになりました。効率的な鉄の道具を使えば、生産力が向上します。また、強力な鉄の武器を持つことで、対外的に軍事的・政治的優位を保つことができたのです。

 古墳時代になると、ますます鉄器の重要性は高まりました。ただ、自然の鉄鉱石や砂鉄から鉄を取り出す製鉄には高い技術が必要で、6世紀までは国内生産はできなかったようです。鉄はもっぱら朝鮮半島南部からの輸入に頼っていたのです。輸入品にはすでに製品になったものと鉄ていと呼ぶ短冊形の素材がありました。

 鉄ていや使用不能になった製品を鋳つぶして新しい製品に仕上げる工程を鍛冶と呼びます。柏原市大県から田辺の一帯は、鉄鍛冶の証拠となる鉄滓やふいごの羽口、各種の砥石などがたくさん見つかっていて昔から注目されていた場所です。もう30年以上も前になりますが、私は玉手山での発掘調査に参加していました。調査が休みの日を利用して周辺の散策をしました。田辺のあたりにさしかかると、あちこちの畑の隅に瓦礫が小山のように積まれていて、その中に鉄滓がたくさん含まれていることを見つけたのです。このあたりに玉手山に古墳を築いた王たちの鉄器生産工場があったのではないかと先輩にうかがうと「鉄滓が何時のものか分からんなー」と軽く一蹴されたことを覚えています。

 それはともかく、近年大県遺跡の発掘調査は進み、いろいろなことが分かってきました。柏原市教育委員会の北野重さんによると、大県集落の成立時期は5世紀前半で、出土遺物に渡来系土器が目立つ。はっきりした鍛冶遺構は6世紀後半の工房だが、5世紀後半にもそれらしい遺構がみつかっている。成立期からその後の集落の変遷はまだ正確につかめていないが、大県から田辺地区の鉄生産関係の遺物の出土量を考えると、古墳時代中期から後期にかけて相当大規模な鉄器生産工場があったことが確実だ、ということです。

 大県一帯には、5世紀前半に朝鮮半島からの渡来人を技術指導者に迎え、大規模な鉄器生産工場が稼働しました。また、5世紀のある段階からは製鉄から製品の仕上げまでの一貫した鉄器生産がこの地で行われた可能性があります。そして、このプロジェクトは倭政権が直轄運営していたのではないでしょうか。

2004.3

鉄鍛冶工程の復元図(潮見浩1988『図解技術の考古学』より

鉄鍛冶工程の復元図(潮見浩1988『図解技術の考古学』より)

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