倭の五王と大阪4(No.169)

更新日:2020年05月06日

 3番目は泉北丘陵における須恵器生産の開始です。

 灰色で堅く焼き締まった土器を須恵器と呼んで、伝統的な赤っぽい軟質の焼き物、土師器と区別しています。その大きな違いは焼き方にあります。須恵器は登り窯を使って、1000度以上もの高温でかつ還元炎で焼かれました。これに対して、土師器は特別な構造窯を使わず、いわゆる野焼きの手法で600度前後の酸化炎で焼かれたのです。須恵器は耐水・耐久性に優れ、一方、土師器は耐熱性に優れているという特長があります。大容量を必要とする貯蔵用の土器には須恵器、煮炊きに使う土器は土師器という使い分けがなされました。しかし、面白いことに食器の類いには、両者が併用されています。

 この新しい土器、須恵器は4世紀末ごろに朝鮮半島から伝わりました。堺市大庭寺(おおばでら)遺跡では初期の須恵器窯とともにその工人たちの村が見つかっています。注目されたのは、村人が使っていた土器が朝鮮半島南部の伽耶(かや)地域の陶質土器と軟質土器にそっくりだったことです。つまり、朝鮮半島で土器づくりに携わっていた人々が渡来して泉北丘陵の一角に村を築き、須恵器づくりの技術を伝えたことがはっきり証明されたのです。

 今は泉北ニュータウンや狭山ニュータウンに生まれ変わった泉北丘陵一帯には、500基を超える須恵器を焼いた窯があったことが知られ、陶邑(すえむら)古窯跡群(以下陶邑という)と呼ばれています。未発見の窯や既に壊された窯を加えると1000基以上の窯があったのではないかともいわれています。

 実は、日本における須恵器生産は、陶邑で独占的に始まったのではなかったのです。大阪府下でも河南町や吹田市に初期の窯が見つかっていますし、愛知県、和歌山県、岡山県、香川県、福岡県でもいち早く須恵器が作られ始めたことが知られています。つまり、須恵器生産は、各地の有力豪族が独自のルートによって須恵器工人を確保して在地に窯を築いた可能性があるのです。しかし、陶邑ほど大規模にしかも継続的に須恵器生産が行われたところはありませんでした。

 陶邑は大まかに見ると、泉北丘陵の北側先端部から開始され、年を追って南側の丘陵奥や隣接の西や東の丘陵に向かって展開していきます。おそらく、窯の燃料を求めての結果だったのでしょう。

 最近の発掘調査では、陶邑の区域内でいくつもの村が営まれていたことが分かってきました。これらの村は河川で区切られたブロックごとに設置された須恵器生産の管理センターや流通拠点だった可能性があります。将来、須恵器の生産から流通にいたる陶邑の実像が明らかにされるのではないかと期待されています。

 陶邑は5世紀代を通じて最新型の須恵器の最大の生産地であり続けました。陶邑における須恵器の生産計画から窯の操業そして製品の流通にいたるまで、倭王権が直接的に統括していたことが考えられます。

 ところが、5世紀の末葉になると、全国各地に須恵器の生産地が出現し、それ以降陶邑の地位は相対的に低下していきます。陶邑が独占的に保有していた須恵器生産技術の地方拡散現象とみることもできます。その背景には、泉北丘陵における窯燃料の枯渇の問題を直接的な契機として、生産拠点を複数化することで倭国全体としての須恵器生産の量的拡大を図ろうとする倭王権の政策決定があったのではないかとみています。

2004.4

堺市大庭寺遺跡出土の軟質土器

堺市大庭寺遺跡出土の軟質土器(財団法人大阪府文化財センター)

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