倭の五王と大阪5(No.170)

更新日:2020年05月06日

 4番目は河内湖の東部一帯で展開した馬生産の問題です。

 4世紀までの倭では乗馬の風習はなかったのですが、朝鮮半島で高句麗などの騎馬軍団と遭遇するなかで、その軍事的重要性の認識が高まってきたようです。そこで急遽、渡来人の指導の元に馬の国産化を進める拠点が設営されました。それが「河内の牧」だったと考えられています。

 馬生産に関する文献史料では『日本書紀』巻10応神天皇15年条に百済王から良馬2頭が献上され、馬の飼育を進めたとする記事があって、これを初見としています。その後、継体6年条と欽明7年条にはそれぞれ40頭、70頭の馬を百済に送ったことを記しています。したがって、すでに6世紀のある段階には馬の国内生産が軌道にのっていたことを推測させるのです。

 さらに継体17年条には越前にいた男大迹(おほど)王(後の継体天皇)が大王に請われたとき河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)に大和や河内の政治情勢を聞いて大和に入る時期を判断をしたという記事があります。これは河内に馬の生産を専業とする集団がいて、彼らは中央の情報にも明るく、一定の勢力を保っていたことを示していると考えられるのです。

 こうした河内の牧をはじめとする馬飼集団の実態はあまりよく分かっていなかったのですが、近年の発掘調査で徐々に明らかになってきました。

 四條畷市の奈良井遺跡では、馬7頭分の骨が出土し、近傍の中野遺跡もあわせて製塩土器、陶質土器、韓式土器の出土が目立つという指摘があります。大量の製塩土器の出土は一般的には塩の生産をおこなった証拠と考えられるのですが、ほとんど淡水の河内湖に面した奈良井・中野遺跡では塩生産をおこなっていたとは考えられません。ですからこれらの製塩土器は、他所で生産された塩の搬入容器だったのでしょう。家畜の食餌に塩は欠かせませんので、おそらくここでは馬の飼育用だったのでしょう。また、陶質土器や韓式土器は、馬の飼育や調教、それに馬具の生産を指導した渡来人の存在証明につながると考えられます。同じく四條畷市の蔀屋(しとみや)北遺跡では、馬の全身骨が残った埋葬穴が見つかり、さらに大量の製塩土器や木製の鐙(あぶみ)や鞍も出土して注目されました。

 また、四条畷市から南にやや離れますが、八尾市の八尾南遺跡では木製の鞍の出土とともに牧を構成する馬屋や一時係留地などを髣髴とさせる建物跡や柵列などが見つかっています。特に全国で30数例しか出土していない珍しい木製鞍は、土器といっしょに見つかって、その使用が5世紀前半にさかのぼる最古の例ということが分かっています。

 さらに古くから著名な東大阪市の瓢箪山古墳や山畑古墳群では馬具やミニチュア炊飯具の副葬が注目され、古くから馬生産を指導した渡来人との関係が指摘されてきました。

 こうした調査結果を見ていくと、まだまだ十分な資料がそろっているとはいえませんが、四条畷市から南の八尾市にかけての一帯にいくつかの馬生産の拠点がおかれたことは確実なようです。またその成立は5世紀の前半にさかのぼり、そこでは渡来人の技術指導のもとに馬の生育から調教、馬具の製作にいたる馬生産の一貫した工程が進められ、軍用馬が続々と送りだされたと考えられます。

 朝鮮半島では4世紀後半以降高句麗の南下政策が軍事的緊迫を招来させていました。それは朝鮮半島南部における利権の確保をめざす倭政権にとっても他人事ではなかったのです。馬の生産拠点を構築することは、軍事的対処の一環だったのです。その期待を担ったのが河内の牧だったと考えています。

2004.5

蔀屋来た遺跡出土鞍金具

四条畷市蔀屋北遺跡出土木製鞍(大阪府教育委員会2009『蔀屋北遺跡発掘調査概要7』より)

蔀屋北遺跡出土馬骨

四条畷市蔀屋北遺跡出土馬骨(大阪府教育委員会)

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