倭の五王と大阪7(No.172)

更新日:2020年05月06日

 6番目は住吉津(すみのえのつ)と難波津、つまり港の問題です。

 

 文献史料からみると、7世紀の大阪湾岸には、住吉津と難波津という二つの外港施設があったことが確かめられます。問題は両港がいつ開設されたかということです。長崎県壱岐島(いきのしま)の原ノ辻(はるのつじ)遺跡では弥生時代にさかのぼる船着場が見つかっていますが、今のところこれ以外に古代にさかのぼるはっきりした港の遺構は見つかっていないのです。

 

 当時、住吉大社の西の海岸にはラグーン(後背湿地)ができていて、天然の良港の条件にかなっていました。海の神、航海の神の住吉神(表筒男(うわつつのお)、中筒男(なかつつのお)、底筒男(そこつつのお))を祭る住吉神社は、播磨国賀茂郡(兵庫県加東郡社町)、長門国豊浦郡(下関市)、筑前国那珂郡(福岡市)、壱岐嶋壱岐郡(長崎県壱岐郡)、対馬嶋下県郡(長崎県下県郡)にもあって、播磨を除くといずれも朝鮮半島から大阪湾にいたる海上交通路の要衝に位置しています。これらの基点が大阪の住吉大社だったのです。直木孝次郎さんは、住吉津が倭王権の直轄する外港として4世紀段階には成立していたと考えておられます。

 

 『日本書紀』雄略14年条には、呉にいった身狭村主青(むさのすぐりのあお)が漢織(あやはとり)、呉織(くれはとり)、衣縫兄媛弟媛(きぬぬいのえひめおとひめ)らを伴って住吉津に泊ったとする記事がみえます。この記事は住吉津が5世紀の末ごろにはすでに設備の整った外港だったことを示していると思います。

 

 一方、難波津は難波の堀江との関連が注目されます。難波の堀江は『日本書紀』仁徳11年条に開削の記事をみることができます。上町台地の北側に発達した天満砂堆(さたい)が、河内湖の排水経路をふさぎ、大雨ごとに内水氾濫をひきおこすので、難波宮の北側に河内湖と大阪湾を結ぶ難波の堀江という人工水路を掘ったとします。現在の大川(天満川)、堂島川、土佐堀川がこの後裔だと考えられています。

 

 難波の堀江は、単に洪水対策の排水路というだけではなく、大阪湾に到着した船が、淀川あるいは河内湖に入り、直接山背や河内・大和に向けて航行が可能になったという大きな利益をもたらせました。難波津はこの堀江の開削工事と連動して開設工事が行われたのではないかと思っています。直木さんは継続的な工事によって、5世紀後半から6世紀には難波津が完成したのではないかとみておられます。

 

 難波津の場所については、いくつかの有力な説があります。日下雅義さんは古環境の復元から現在の高麗橋(こうらいばし)付近と推定されます。千田稔さんは天満砂堆の形成を認めず、地名考証から三津寺付近が有力だとします。また、木原克司さんは船泊まりに有利な河内湖側の玉造から桑津付近ではないかとします。

 

 6世紀以降難波津は住吉津に替わって外港の中心として機能したと考えられます。難波屯倉(みやけ)、館(むつろみ)(難波館、百済客館、高麗館)、難波大郡(外交用庁舎)、難波小館(内政用庁舎)などの多くの港湾関連施設の存在がそれを裏付けています。

 

 津に関係する考古資料としては船形埴輪がまず注目されます。船形埴輪は全国で40例ほどしかないのですが、そのうちの半数近くが大阪府下で出土しています。また、八尾市久宝寺(きゅうほうじ)遺跡では古墳時代の準構造船の実物も見つかっていて、大阪は船と大変関係の深い土地柄だったことが知られます。

 

 住吉津は古市・百舌鳥古墳群が成立し、陶邑(すえむら)で須恵器の生産が始まる4世紀後半、難波津は河内の牧で馬生産が、大県(おおがた)で鉄器生産が本格稼動し、法円坂に巨大倉庫群が出現する5世紀後半に開設されたのではないかと今は考えています。

 

2004.7

岡古墳出土船形埴輪

藤井寺市岡古墳出土の船形埴輪

 

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