倭の五王と大阪8(No.173)

更新日:2020年05月06日

 倭の五王について長々とレポートしてきました。まだまだ取り上げたい問題もあるのですが、そろそろ飽きられたのではないかと心配になってきました。で、今号に倭の五王と大阪のまとめを記して一応の締めとしたいと思います。

 倭の五王は、河内湖をめぐる大阪平野を舞台に、矢継ぎ早にダイナミックな政策を展開しました。

 その第一は須恵器生産、鉄器生産、馬生産を中心とする産業の振興です。

 陶邑(すえむら)での須恵器生産は、倭の五王の先々代あたりの4世紀末頃にはじまり、五王の時代にその独占的な生産が一つのピークを迎えます。五王最後の武は、須恵器の地方生産を推奨し、産業構造の転換に乗り出します。

 大県(おおがた)での鉄器生産は、倭の五王の時代に軌道に乗った事業でした。ただ、それは鉄器生産の最終工程の鉄鍛冶が中心でした。ただ、鉄鉱石や砂鉄から鉄を取り出す製鉄工場がいつ頃列島国内で本格的に稼動するか、今後の調査に期待されるところです。

 まだ十分な資料はそろっていないのですが、河内の牧(まき)の成立も倭の五王の事跡だと考えられます。軍用馬の生産は、緊迫度を増す朝鮮半島情勢に対処するために不可欠な軍需産業だったのです。

 第二は外交や物資流通の拠点としての港湾施設の整備が挙げられます。五王の時代の前半には天然の良港住吉津(すみのえのつ)を整備し、後半には難波の堀江の開削と連動させて難波津が整備されました。

 第三は大王の権威を象徴する政治的記念碑の構築です。これには巨大古墳群と巨大倉庫群の造営があります。

 百舌鳥(もず)・古市古墳群の巨大な前方後円墳の中には倭の五王の墳墓が含まれていると考えられます。前方後円墳の規模が最大に達するのはまさに倭の五王の時代なのです。

 また、法円坂(ほうえんざか)の巨大倉庫群は、近在の難波津や難波の堀江と連接して圧倒的な存在感のある景観を形作り、王権の権威を可視的に演出したと考えています。

 倭の五王がこうした国家的なプロジェクトを積極的に進めた背景には、朝鮮半島における利権争いということが見逃せません。特に朝鮮半島南部の豊かな鉄資源の確保は、鉄の自給体制が整っていない倭王権にとってまさに死活問題だったのです。倭の五王が中国王朝に朝貢(ちょうこう)を繰り返し、執拗に官位を請求したのは、朝鮮半島諸国(高句麗、百済、新羅、加羅諸国)に外交上も対抗する必要があったからに他なりません。

 478年、倭王武は宋王朝に対して、有名な上表文を送ります。そこには極東の覇王としての倭王の来歴が誇らしげに語られ、対高句麗戦への決意とともに中国皇帝の臣下として忠誠をつくすので、高句麗と同格の官位を願うことが記されていました。倭王武としてはまさに乾坤一擲(けんこんいってき)の外交上の勝負にでたのです。しかし、中国皇帝は従来の高句麗と倭のランクを変えることはしなかったのです。

 外交上の勝負に敗れた倭王武は、対中国外交の舞台から姿を消します。その最大の理由は、日々複雑化を増す朝鮮半島情勢に弱体化した宋王朝の権威は役立たないと見越し、朝鮮半島南部の鉄資源を中心とした利権の確保については、自力勝負だと決意を固めたからでしょう。その決意の背景には、大阪を舞台に展開したいくつもの大型プロジェクトが概ね順調に推移し、国力が確実に上昇したという自信に裏打ちされていたと考えられるのです。

2004.8

北から見た古市古墳群

北から見た古市古墳群

河内湖沿岸のプロジェクトの稼働時期

河内湖沿岸のプロジェクトの稼働時期

お問い合わせ

教育委員会事務局教育部 文化財保護課
〒583-8583
大阪府藤井寺市岡1丁目1番1号 市役所6階65番窓口
電話番号:072-939-1111 (代表)
072-939-1419 (文化財担当、世界遺産担当)
ファックス番号:072-952-9507