空白の世紀(No.148)

更新日:2013年12月20日

320年~370年の東アジア

今回から「倭の五王」のお話を何回かにわたってしてみようと思います。
倭の五王は、邪馬台国の卑弥呼ほどではありませんが、日本の古代史を彩るスターであることはよく知られています。倭つまり日本の5人の王様が古代中国の公式記録に名前をとどめているのです。かれらは、漢字一文字で讚(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)と名のっています。彼らが活躍した時代は5世紀で、それは古市古墳群や百舌鳥古墳群に巨大な前方後円墳がつぎつぎと造られた時代とラップしているのです。
卑弥呼は248年ごろに亡くなって、台与(とよ)が後を継いで女王になり、魏(ぎ)に使いを派遣しています。その後、魏は265年に滅び、晋(しん)という国が建国され、その直後の266年に倭の女王が貢ぎ物をもって使いを派遣してきたことが記録されています。この記録には女王の名前がありませんが、台与だろうと考えられています。
このあと、中国王朝の公式記録からぷっつりと倭の文字が消えます。そして、ふたたび登場するのが約150年後の倭王讚なのです。この150年の空白はどう解釈したらいいのでしょう。この問題を倭の五王登場までのプロローグとして考えてみましょう。
もちろん、倭の鎖国状態がこの空白を産み出したとは考えられません。当時の最重要資源の鉄は、朝鮮半島の国々との交易でしか入手できなかったわけですから、この関係を維持発展させることは当時の政権の基本課題だったのです。
それは国内と朝鮮半島の政治的・軍事的情勢が大きくからんでいると容易に想像されるのです。では、この3世紀後半から4世紀の時間帯の朝鮮半島の情勢をざあーと見ていきたいと思います。
朝鮮半島の北部はこの時代高句麗(こうくり)が領有していました。高句麗の建国年代ははっきりしないのですが、2世紀の末に鴨緑江(おうりょっこう)中流域の吉林省(きつりんしょう)集安(しゅうあん)に都を定めてから急速に国力を充実させました。三世紀の末ごろから、遼寧(りょうねい)半島から山東半島一帯を領有していた前燕(ぜんえん)との対立が激しくなり、しばしば戦火を交えたことが知られています。その戦いの趨勢は高句麗の首都丸都(がんと)がおとされ、王族の多くが人質にとられたこともあって、高句麗側の不利に展開したようです。つまり、高句麗は背面に強敵を背負っていたことになるのです。こうした状態は、370年に前燕が前秦(ぜんしん)に滅ぼされるにいたって変化します。前秦との関係はおおむね友好的に進みました。したがって、高句麗の領土拡張政策の矛先は後顧の憂いなく半島南部に向けられることになったのです。
一方、3世紀の半島南半部では、まだ国家形成が進まず、ゆるやかな地域連合体が西部(馬韓)、東部(辰韓)と南部(弁韓)に形成される段階にとどまっていました。やがて、4世紀半ばに馬韓(ばかん)地域に百済(くだら)、辰韓(しんかん)地域に新羅(しらぎ)が建国され、急速に力を伸ばしました。ところが、弁韓(べんかん)地域では小国分立が長く続き、百済、新羅、それに海を隔てた倭の思惑が交錯する舞台となったのです。
4世紀の後半、建国まもない百済と新羅は、北の高句麗の脅威にさらされることになります。特に百済はたびたび戦火を交え一進一退の攻防を繰り返したのです。(つづく)

図:320年~370年の東アジア(大庭脩「五世紀の東アジアと国際情勢」『仁徳陵古墳築造の時代』1996年より)
『広報ふじいでら』第398号 2002年7月号より

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