倭の五王の登場まで(No.149)

更新日:2013年12月20日

好太王碑第一面拓本(水谷拓本)

百済はこの局面を有利に導くため、中国王朝の東晋(とうしん)に使いを送り、臣下(しんか)となることで、大国の後ろ盾を得ようとします。また、倭には友好のしるしとして石上神宮に保存されている七支刀(しちしとう)を送っています。これらは、百済の外交努力の一端をうかがうことができる事象です。
倭は、鉄を中心とする権益を半島南部に確保する必要にせまられていたのですが、高句麗が北部勢力との攻防に一生懸命だった4世紀前半までは比較的安定した交易関係を維持していたものと考えられます。ところが、高句麗の南下政策が本格化する4世紀後半になると、半島をめぐる政治的・軍事的情勢はにわかに緊迫の度を深めていくのです。
この4世紀後半の倭と朝鮮半島との関係をうかがう重要な二つの金石文が残されています。一つは好太王碑であり、もう一つは七支刀です。
まず好太王碑です。この碑は朝鮮半島を大陸と画するように西流する鴨緑江の中流右岸、現中国吉林省集安県太王街にあります。ここは、3世紀初めから5世紀前半に高句麗の国都があったところで、それゆえ、たくさんの遺跡が残されています。なかでもこの好太王碑と華やかな古墳壁画が注目をあつめています。
好太王は高句麗第19代の王で、領土の拡張にめざましく活躍し、412年に亡くなっています。正式な諡号(しごう)は、国岡上広開土境平安好太王といい、略して広開土王もしくは好太王と呼ばれています。息子の長寿王は父の功績をたたえるために高さ6・3メートルの巨大な石碑を建て、その四面に1775字の碑文を刻んだのです。それは好太王の死後2年経った414年のことでした。
さて、この碑文は、大きく三段に分けて記されています。第一段は、始祖の建国神話と好太王の即位と死去の事情、第二段では、彼の功績を年を追って記述し、第三段に王陵を守る役人について記しています。三段構成の碑文は、「天帝」に基づく「聖徳」が好太王に受け継がれ、王の聖戦によって、周辺諸国が王の徳に帰順したとする歴史観を基調としていることに注意が必要です。
碑文の中でも常に論争の的となってきたのは、第一面の8行目後半から9行目にある「百残新羅旧属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡海破百残::新羅以為臣民」の節です。この文の意味は「百残(百済)と新羅はもともと高句麗の属民であり、高句麗に朝貢していた。ところが倭が辛卯年(391年)より以来、海を渡って百残を破り、新羅を::して、臣民にしてしまった」と解釈されてきました。
そこからは、百済、新羅を臣民にして、高句麗と対抗するほどの軍事大国だった倭のイメージが思い描かれます。はたして、倭の実態はそのようなものだったのでしょうか。
戦後、韓国と朝鮮民主主義人民共和国の研究者から異論がいくつか提出されました。鄭寅普(ちょんいんぽ)さんは「百残と新羅は(好)太王のともに属民であった。しかるに、倭がかつて高句麗に来り侵し、高句麗もまたかつて海を渡って往きて(倭を)侵し、相互に攻めあった。そして、百残は倭と通じて新羅に不利をはたらいた。(好)太王は、吾が臣民がなぜこのような有様なのかと思った」と解釈しました。
朴時亨(ぱくしひよん)さんは「倭が辛卯年に侵入してきたために、高句麗は海をこえて彼らを撃破した。百済は(倭をひき入れ)新羅を侵略し、それを臣民とした」とし、また、金錫亨(きむそくひょん)さんは「倭が辛卯年に来たので(高句麗は)海を渡って百済を破った。そして新羅をもあわせて高句麗の臣民とした」とする解釈を下したのです。(つづく)

図:好太王碑第一面拓本(水谷拓本)(読売新聞社編『好太王碑と集安の壁画古墳』1988年より)
『広報ふじいでら』第399号 2002年8月号より

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