4世紀後半の倭の実態(No.150)

更新日:2013年12月20日

三種の拓本(左:墨水廓填本、中央:石灰拓本、右:精拓本)

先月号を読まれた市民のかたから、拓本の図が小さすぎて見えないとお叱りの電話をいただきました。同じように感じられたかたもおられるようですので、紙面を借りて、言い訳をしておきます。
好太王碑は角礫凝灰岩という石でできていて、その表面は大小の凹凸があり、加えて長年の風化作用や苔の付着で碑文は極めて読みづらい状態にあります。現地を訪れた研究者の話でも、碑の巨大さもあって、肉眼ではほとんど判読不能だったということです。そこで、拓本が必要となるのです。
これまでに知られている拓本には三種があります。
まず、もっとも古い拓本は墨水廓填本(ぼくすいかくてんぼん)といわれる手法によったもので、これは正確には拓本ではなく、石面の文字を一字いちじトレースして合成したものです。酒匂景信(さかわかげあき)さんがわが国に最初に持ち帰った酒匂本はこの種のものです。
第2種は、石面に画仙紙(がせんし)を貼り付けタンポで叩き出す通常の拓本手法によった作品です。精拓本あるいは原石拓本と呼ばれるものです。碑面を忠実に再現する点で資料価値が高いのですが、肝心の文字が朦朧としているのが欠点だったのです。
第3種は、第2種の欠点を補うべく文字の部分を残して、碑面に石灰を塗り、文字だけが浮き出るように細工した拓本で、石灰拓本と呼ばれています。ただ、この種の拓本は碑面の読みづらい文字が拓本作者によって異なる文字に再現されている可能性が否定できず、資料としての扱いに注意が必要なのです。
実は先月号に掲載した拓本は第2種の精拓本なので、かりに紙面一面に拡大しても読みづらいことに変わりはないのです。
さて、言い訳が長くなりましたが、本筋に話を戻します。
辛卯(しんぼう)年の条の解釈をめぐって、日本と韓国・北朝鮮の研究者では大きく意見が異なっています。最大の論点は、主語を倭とするか、それとも高句麗とするのかだと言えるでしょう。そんな論争の中、浜田耕策さんが魅力的な解釈を発表されました。
浜田さんは第二段の構文全体を分析され、第二段は時系列に沿って5つの記事から構成され、それぞれに高句麗が軍事行動を起こさなければならなくなった理由を前置きに記していることに注意を向けたのです。
たとえば、最初の永楽5(395)年の記事では、稗麗(ひれい)という部族が高句麗に侵入してきたので、王は自ら軍隊を率いてこれを討って、領土を奪回したことが記されています。この構図が一貫しているとすると、辛卯年の条の解釈は、従来の日本の定説でいいことになります。
しかし、それによって倭が百済や新羅を支配下においてしまうほどの軍事大国だったとストレートに解釈してしまうのは危険なのです。
碑文は好太王の業績をアピールするために記されたものです。したがって王が高句麗の国難を英雄的な活躍で打開したことを述べる必要があったのです。したがって、その文章には、かなりの誇張が含まれていることを考えなければならないのです。
また、碑文に記された倭が日本列島のヤマト政権のことを指しているのかということも問題です、西日本各地の豪族が率いた海賊集団を意味するという説や九州北部におかれた百済の分国だとする説もあります。
少なくとも、4世紀後半の日本では、百済や新羅、はては高句麗まで攻め入るほどの軍事力を持っていたのかは大いに疑問です。
碑文に記された倭の文字は中国の王健群(わんぢぇんちゅん)さんによれば、周辺国中最多の11箇所にのぼります。好太王の好敵手のように扱われていた倭の実態はいまだ多くの謎に包まれているのです。

図:三種の拓本(左:墨水廓填本、中央:石灰拓本、右:精拓本)(浜田耕策「好太王碑をめぐる争点」『好太王碑と集安の壁画古墳』1988年より一部改変)
『広報ふじいでら』第400号 2002年9月号より

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