七支刀の銘文 (No.151)

更新日:2013年12月20日

左:石上神宮(山崎義弘氏撮影提供) 右:七支刀(石上神宮提供)

「謎の4世紀」をうかがうもう一つの重要な金石文史料、七支刀の銘文を紹介しましょう。
七支刀は、天理市の石上神宮(いそのかみじんぐう)に古くから伝えられてきたご神宝です。この刀は、長さ約75センチメートルの鍛造(たんぞう)両刃つくりで、身の両側に互い違いに小枝を三本派生させた特異な形をしています。この両面に金象嵌(きんぞうがん)の銘文が刻まれていたのです。
この文字を最初に見いだしたのは、明治7年(1874)石上神宮に大宮司として赴任してきた菅政友(かんまさすけ)さんでした。
近代初期の日本の歴史学をリードした一人、星野恒(ひさし)さんは、この刀が日本書紀の神功皇后五十二年条の百済肖古王からの貢納品の一つ、七枝刀に違いないと指摘し、以来この銘文が脚光を浴びることになるのです。
さて、銘文は大変読みづらい状態にあったのですが、戦後、福山敏男さんが次のように判読されています。
(表)泰和四年五月十一日丙午正陽造百練銕七支刀生辟百兵宜供供侯王::::作
泰和四年正(或は四か五か)月十一(或は六か)日の淳陽日中の時に百錬の鉄の七支(枝)刀を作る。以って百兵を辟除し、侯王の供用とするに宜しく、吉祥であり、某(或は某所)これを作る。
(裏)先世以未有此刀百滋:世:奇生聖音故為倭王造伝不:世
先世以来未だ見なかったこのような刀を、百済王と太子とは生を御恩に依倚しているが故に、倭王の上旨によって造る。永く後の世に伝わるであろう。
七支刀の表には、製作年代とその干支、品名、吉祥句、作者の名が、裏には、これが誰から誰へどういった目的で与えたかを記しています。
大きな論点の一つは、泰和四年の解釈です。福山さんは、中国東晋の太和四年(369年)あるいは三国魏の太和四年(230年)を候補にあげました。その後、東晋太和四年が神功五二年(干支二運下げた年代371年)と近似値を示すことから東晋太和四年が通説となったのです。
ところが、これに対し、李進煕(りじんひ)さんが強烈な反論を展開します。李さんは、太和四年に続く五月十一日丙午という製作日付に注目します。東晋太和では、干支日が合わないのです。北魏の太和四年(480年)だとすると、ぴったり合うので、これこそ七支刀の製作年代だと主張しました。
これに対しては、この日付は吉祥句にすぎないとする反論や十一日は十六日と訂正すべきという意見もあって、現在ではやや渾沌とした状況にあります。
次に問題となるのが、この刀が、百済王から倭王に献上されたものなのか、反対に下賜(かし)されたものなのかという点です。これは、全体の文意を見る必要があります。
表「百錬の鉄で七支刀を造る。これによって世は兵事の不祥を避け、もろもろの侯王に幸いする」。裏「先世以来、まだこの刀あらず。百済王の世子、奇しくも生まれながらにして聖徳あり。それ故百済は倭王のために造った。後世まで示し伝えなさい」金錫亨(きむそくひょん)さんや上田正昭さんは、この銘文を素直に読むと、上位者(百済王)から下位者(倭王)への命令的文書の形式をとっていることを指摘します。
七支刀をめぐっては、このように未決着の議論が多いのですが、七支刀の銘文が初期の日朝関係史をひも解く鍵を握っていることに変わりはありません。
太和四年が369年だとすると倭の五王の活躍前代に倭と百済はすでに緊密な関係を取り結んでいたことになります。これが480年だとすると、それは倭の五王末期の時代ということになります。さあ、どうでしょうか。

写真:左:石上神宮(山崎義弘氏撮影提供) 右:七支刀(石上神宮提供)
『広報ふじいでら』第401号 2002年10月号より

お問い合わせ

教育委員会事務局教育部 文化財保護課
〒583-8583
大阪府藤井寺市岡1丁目1番1号 市役所6階65番窓口
電話番号:072-939-1111 (代表)
072-939-1419 (文化財担当)
ファックス番号:072-938-6881
〒583-0024
大阪府藤井寺市藤井寺3丁目1番20号
電話番号:072-939-1111 (代表)
072-952-7854 (世界遺産担当)
ファックス番号:072-952-7806
メールフォームでのお問い合せはこちら

みなさまのご意見をお聞かせください
このページの内容は分かりやすかったですか。
このページは見つけやすかったですか。