倭王讚の登場 (No.152)

更新日:2013年12月20日

『宋書』倭国伝

前置きが長くなりましたが、いよいよ倭の五王の登場です。その前に当時の中国の政治的・軍事的情勢を簡単に整理しておきます。
邪馬台国が使いを送った魏の次に晋が建国されます。265年のことでした。その後、北方民族の中国への侵入が激しさを増し、五胡十六国の乱が起きます。中国の北半は、5つの北方民族の建てた16の国々が覇権を争う舞台となったのです。晋は316年に滅ぼされるのですが、317年、都を東南に移して再興されます。都を移すまでを西晋、移してからを東晋といいます。中国大陸が北方民族と漢民族によって南北に分断されたので、南北朝時代と呼んでいます。
倭の五王が遣使したのは、もっぱら南朝です。南朝は東晋のあと、420年に宋が、479年には斉が、そして502年には梁と王朝が代替わりします。
中国では王朝ごとに正史が編さんされます。『晋書』、『宋書』、『南斉書』あるいは『南史』、『梁書』です。正史は本紀・志・列伝の三部から構成され、「本紀」とは歴代の王の事跡を追った通史、「志」は地理や風土を記し、そして「列伝」は有力な家臣や服属してきた小国の伝記なのです。倭の五王はこれらの正史の本紀及び列伝に登場するのです。
さて、最初の倭王の記事は、『晋書』安帝本紀にみえます。「義熈(ぎく)九年(413)是の歳、高句麗・倭国及び西南夷銅頭大師並びに方物を献ず」この記事では倭王の名前が明らかではありません。しかし、後に編さんされた『梁書』倭伝には「晋の安帝の時、倭王賛有り」とあるので、讚王であった可能性が高まります。しかし、この記事を疑問視する研究者もあります。
その一つは、高句麗王高(長寿王)は、このときの遣使入貢で征東将軍高句麗王楽浪公に任じられているのですが、倭王の除正記録は見当たらないのです。また、413年は、その前年に好太王が死去し、長寿王が即位し、翌年には好太王碑が建立された年です。高句麗が積年の仇敵のように扱った倭と並んで朝貢するとは、不自然なことのようにも思えます。
という事情もあって、倭王の最初の登場はやや霞がかかっているのです。
『晋書』の次に編さんされた『宋書』が倭の五王関係の主要史料です。『宋書』には「倭国在高麗東南大海中」という有名な一節にはじまる倭国伝(正確には『宋書』巻九七夷蛮伝東夷倭国条といいます)が収められています。
『宋書』には、「倭国伝」に7回、「本紀」に3回の倭国王の遣使記録が残されています。宋王朝は420年から479年まで続いたので、その間平均すると、6・5年に1度の割合で遣使したことになります。
それでは、『宋書』倭国伝をひも解いてみましょう。訓読には笠井倭人さんの『研究史倭の五王』を参考にしました。最初の段落は、「倭国は高麗の東南大海の中に在り。世貢職を修む。高祖の永初二年(421年)、詔して曰く。「倭讚万里貢を修む。遠誠宜しく甄(あらわ)すべく、除授を賜うべし」とあります。
倭の国は高句麗の東南の海の中にある。代々貢ぎ物をもって中国にやってきている。宋の高祖が「倭の讚は遠い所から貢ぎ物をもってきて、非常に誠実な態度を表明した。それゆえ位をさずける」と詔したという意味だと思います。次に「太祖の元嘉二年(425年)、讚又司馬曹達を遣わして表を奉りて方物を献ず」と記されています。
倭王讚は421年と425年の2回にわたって遣使朝貢したことが知られます。ただ、これらの朝貢に対して、どのような位を授かったのか、この記事からは直接読み取ることができません。

図:『宋書』倭国伝(石原道博訳『新訂中国正史日本伝(1)』1985年より)
『広報ふじいでら』第402号 2002年11月号より

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