倭王珍の称号 (No.153)

更新日:2013年12月20日

倭王讚の墳墓と考える堺市大仙(仁徳陵)古墳

『宋書』「倭国伝」の続きを読んでみましょう。
「讚死して弟珍立つ。使を遣わして貢献す。自ら使持節・都督・倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称し、表して除正せられんことを求む。詔して安東将軍・倭国王に除す。珍又倭隋等十三人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍号に除正せられんことを求む。詔して並びに聽(ゆる)す」
この記事には年代の記載がないのですが、「本紀」元嘉十五年(438)の条に「倭国王珍を以て安東将軍と為す」という記事がありますので、この年のことだと考えられます。
倭王讚が亡くなって弟の珍が王位につき、貢ぎ物をもってやってきた。珍は使持節(しじせつ)・都督(ととく)・倭・百済・新羅・任那・秦韓(しんかん)・慕韓(ぼかん)六国諸軍事・安東(あんとん)大将軍・倭国王と自称して、正式に官位として認めて欲しいといったようです。
使持節とは、占領地の軍政官の位で、都督は軍隊の総括官の位です。
次に六つの国名が出てきます。倭・百済・新羅はその地域が特定されるのですが、任那はやや問題がありますが、おそらく洛東江流域を中心とした伽耶の地域だと考えられます。さらに問題になるのは、秦韓と慕韓です。秦韓は辰韓、慕韓は馬韓のことで、それぞれは後に新羅と百済になります。
これには二つの解釈があります。一つは、秦韓と慕韓の地域には、まだ新羅、百済に統合されていない小国があったとする説。もう一つは、倭王が勢力を誇示するためにあえて同じ地域のことを重複して言ったんだとする説です。
それはともかく、倭王は朝鮮半島の南半に軍政をしき、軍隊も掌握しているのだと主張したのです。
安東大将軍は、中国の王から周辺国の王がもらう将軍号の一つで、九品中正(きゅうほんちゅうせい)という将軍ランク制度の第二品(第二グループ)の中に位置づけられます。
倭王珍の官位要請に対して、宋の太祖は、使持節以下のことを認めず、しかも将軍号の大を抜いて、第三品の「安東将軍」としたのです。
しかし、同時に要請した倭隋以下十三人の除正はそのまますんなり許されています。彼らの将軍号平西・征虜・冠軍・輔国将軍は、珍が除せられた安東将軍と同じ第三品に属し、倭王珍と大きな差のないことが注意されます。
この倭隋等と倭王珍の関係については、いろいろな議論があります。佐伯有清さんは、倭王の支配に服属した地方の首長たちであろうとします。藤間正大さんは、さらに進めて、倭隋は倭讚や倭済と同格の一地域の首長だとします。
一方、武田幸男さんは、特に平西将軍に任ぜられた倭隋をとりあげ、「倭」が王族の姓として表記されたと解し、平西将軍の西は王権の所在地畿内から見た方位であるとしたうえで、倭隋を王族の有力者で、朝鮮半島への海路を扼する北九州の地に派遣され、そこに駐留した人物であると具体的な論究をされています。(つづく)

写真:倭王讚の墳墓と考える堺市大仙(仁徳陵)古墳(堺市博物館提供)

『広報ふじいでら』第403号 2002年12月号より

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