倭王済と興 (No.154)

更新日:2013年12月20日

倭王珍の墳墓と考える堺市土師ニサンザイ古墳

倭王珍は、倭国内の軍事的支配権を強化安定させ、朝鮮半島南部の軍事的支配権の正当性を得ようとして官位の除正要請をおこなったとみられます。それは、すでに鎮東大将軍に任ぜられていた百済王余映(よえい)や征東大将軍の高句麗王高(注意1)(こうれん)への政治的均衡を図る意図がこめられていたことは容易に想像されるところです。
しかし、珍のもくろみは簡単に成就しませんでした。中国王朝における東アジア諸国のランク付けは、高句麗→百済→倭という序列が厳然としていたのです。
次に、倭国王済が登場します。「元嘉20年(443年)倭王済、使いを遣わして奉献す。復以て安東将軍・倭国王と為す」ここで登場した済の讚や珍との関係が分からないという問題が残されます。済の位は安東将軍のままでした。
済には、8年後の「元嘉28年(451年)に使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加え、安東将軍は故(もと)の如し。并(ならび)に上がる所の二十三人を軍郡に除す」という記録が残されています。
やっと、使持節以下の加号がなされたのですが、安東将軍はもとのままでした。ただ、宋書本紀(文帝紀)によれば、同年秋七月に「済、号を安東大将軍に進む」とありますので、あまり時をおかず、追加の進号が下されたものと考えられます。
ここでの問題は、「二十三人を軍郡に除す」であります。中国の官職には軍郡というのは見当たりませんので、どういった官位なのか定かでないのです。坂元義種さんは、軍は将軍号で、郡は郡域の長官である太守を意味すると解釈されていますが、異論もあります。
次に「済死す。世子興、使いを遣わして貢献す。世祖の大明6年(462年)、詔して曰く、『倭王世子興、奕世(えきせい)すなわち忠、藩を外海に作し、化をうけ、境をやすんじ、うやうやしく、貢職を修め、新たに辺業を嗣ぐ。宜しく爵号を授け、安東将軍・倭国王とすべし』と」
済が亡くなり、その子の興が使いを送っています。興は、「代々の忠誠尽くしている。海の向こうの遠くにありながら、天子の徳化を受け、国を安泰に統治して、よく貢ぎ物持ってくる。先王の仕事を引き継いだ。彼を安東将軍・倭国王とする」と言っています。ここでは、興をえらくほめているのですが、済でやっと認められた大将軍は、元の将軍になっていますし、六国諸軍事の扱いもよく分からなくなっています。
そして、倭の五王の最後の武の登場を迎えます。
「興死して弟武立つ。自ら使持節・都督・倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称す」興の死後、弟の武が後を継ぎ、最初の貢献の時から大きな称号を認めてほしいと言っています。次に、これまで自分の国はいかに中国王朝に尽くしてきたか、周辺国の平定の過程を述べ、対高句麗戦への支援を願う有名な「上表文」が続きます。
上表文は難解な漢文が続きますので、文節に切ってみていくことにします。
「封国偏遠にして、藩を外に作す。昔より祖禰、躬(みずか)ら甲冑を(注意2)(つらぬ)き、山川を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること、六十六国。渡りて海北を平ぐること、九十五国」
倭国は中国からはるか離れたところにあります。先祖代々、国王は自らよろいかぶとを着けて、先頭に立ち、敵を鎮圧し、国作りに大変忙しかった。日本列島の東方は55カ国、西方は66カ国を征服した。「渡りて海北を平ぐ」とは、朝鮮半島にも出兵したことを言っているのでしょう。(つづく)

注意1:へんは王、つくりは連
注意2:へんは手、つくりは環のつくりの部分

写真:倭王珍の墳墓と考える堺市土師ニサンザイ古墳(堺市博物館提供)

『広報ふじいでら』第404号 2003年1月号より

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