倭王武の上表文2(No.156)

更新日:2013年12月20日

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「竊(ひそ)かに自ら開府儀同三司を假し、その餘は咸な假授し、以て忠節を勸む、と」
このように考えているので、開府儀同三司(かいふぎどうさんし)という役職をいただき、その他の家来にも仮に称号を与えているので、これも正式に認めて欲しい。そうしていただければ、中国の王への忠節をさらに励むでしょう。
「詔して武を使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王に除す」
武の要請からは、百済が除かれていますし、上表文の最後に切望した開府儀同三司のことは、まったく触れられていません。
倭王武の上表文を要約すると、
「倭国は宋王朝の外藩として、代々忠実に遣使朝貢してきた。だが、高句麗の横暴によって、近隣の国々は大変ひどい目にあっている。そこで、高句麗征伐の出兵を決意した。宋王朝の力をえて、この強敵を倒したい。ついては、忠節をすすめるために自ら授けた仮の官号を正式に認めて欲しい」ということになるでしょう。
ここまで、『宋書』「倭国伝」を読み進めてきました。倭の五王の関連記録は、『宋書』「倭国伝」以外にも『宋書』本紀にもあり、さらに『宋書』に前後する『晋書』本紀、『南斉書』「倭国伝」、『梁書』「倭伝」・本紀にも記載がみられます。これらを年表にまとめてみました。
これを見ると、413年にはじまり、502年まで一世紀近くにわたって、倭王は中国南朝と外交関係を保ってきたことが知られます。
その間、倭国王の一貫した外交姿勢は、中国王朝の外藩として、より位の高い官爵を受けることでした。それは、朝鮮半島南部を含んだ軍事的支配権の公認とそれにふさわしい将軍号、さらに倭国の支配者たる倭国王の爵号だったのです。
しかし、中国王朝は倭王の望んだ称号をすべて授けることはありませんでした。建元元年(479年)と天藍元年(502年)の倭王武に対する将軍号の進号が、南斉と梁の新王朝樹立時のいわば祝賀行事の一環だったとすると、倭の五王の実質的な対南朝交渉は、武が上表文を奏した昇明2年(478年)が最後だったと考えられます。
倭王武が上表文を送った年の3年前、475年、百済は高句麗の猛攻を受け、王都漢城が陥落し、百済王の惨殺という、まさに王朝滅亡の危機にありました。高句麗の南下圧力は、朝鮮半島南部の権益を政権維持の生命線としていた倭王武にも脅威に映じたにちがいありません。(つづく)

表:倭の五王関連記事(笠井倭人『研究史:倭の五王』1973年より作成)

『広報ふじいでら』第406号 2003年3月号より

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