対宋外交の終焉(No.157)

更新日:2013年12月20日

倭王興の墳墓と考える羽曳野市軽里大塚(白鳥陵)古墳

倭王武にとって、上表文は、対高句麗戦を念頭においた外交上の乾坤一擲(けんこんいってき)の大勝負だったのです。ところが、宋王朝の返答は、まことにつれないものだったのです。武の落胆は想像するにあまりあります。
しかし、当時の東アジアの国際情勢からすれば、宋王朝の態度は十分うなずかれるものだったのです。広大な中国大陸は、北の魏と南の宋に分割され、互いに覇権をきそっていました。朝鮮半島の付け根に位置する高句麗の去就は、両国の政治・軍事の戦略上、大きな関心事だったのです。高句麗もまたそのことをよく理解していたふしがあって、頻繁に両国に遣使朝貢を行い、巧みな外交戦略をとっています。
宋が高句麗を百済や倭より一貫して高い官職につけたのは、その強力な軍事力もさることながら、北魏包囲網を構成する重要な一員と認めていたからに違いありません。海東はるかな倭が、高句麗の非道をなじり、その征伐とそれと同等の官職を要望しても、それじゃ、そうしなさいとは言えないのが、宋としての当然の帰結だったのです。
宋が高句麗をどのようにみていたかは、『宋書』「高句麗伝」大明7年(463)の条に見出されます。「世々忠義を事とし、藩を海外に作し、誠を本朝に係(つな)ぐ。残険を剪(ほろぼ)さんことを志し、訳を沙表に通じ、克(よ)く王猷(おうゆう)を宣(の)ぶ」
高句麗は代々忠義を第一として、国を作り、誠実に我が王朝と係ってきた。残険(北魏のこと)を滅ぼすために、沙表(北魏の北方にいた蠕蠕(ぜんぜん)という匈奴の一種族)と言葉を通じ、王の道の何たるかを広く告げ知らせた。という意味です。
また、藩属国間の戦闘を禁じた中国王朝の基本原則からしても、高句麗戦を前提とした倭の主張が認められるはずもなかったのです。
倭王武は、478年の遣使以降、宋王朝との通交を断ちます。479年と502年の武への将軍号の進号は、前にも述べましたが、新王朝樹立に伴う儀礼的・一方的なもので、武の生存や遣使をうかがわせるものではないのです。通交断絶の直接のきっかけは、宋の叙任方針への不満だったのでしょうが、それ以外にも考えられるところがあります。
もちろん、宋との通交を断ったからといっても、朝鮮半島諸国との関係を絶ったわけではありません。南部勢力の百済や加耶諸国との友好関係の増進、それへの脅威となる高句麗との対決という基本的な外交方針は揺らぐことはなかったのです。
通交断絶の最大の理由は、南朝の弱体化を背景として、吉田晶さんも指摘するように、激動する朝鮮半島情勢が中国王朝による冊封関係だけで律することができるほど、生易しいものではないことを倭王武も認識していたと考えられることです。ともに宋から冊封を受けている高句麗と百済が存亡をかけた争いをすることは、冊封体制の原則からすると、御法度のはずですが、現実は激烈な戦闘を繰り返したのです。この一事をとってみても、冊封体制が現実の国際関係を律する働きをしていないことが明らかなのです。
通交断絶がそうした対外関係とともに倭の国内関係にも影響があったかどうかを見ておく必要があります。倭王珍、済、武は、配下にも称号を求め、自らと配下の序列化を図ろうとしています。ただし、その序列は、冊封によって、成り立ったものではなく、既にあった序列を国際的権威によって追認しようとしたと考えられるのです。したがって、自前の実力で序列の維持が図れるという見通しさえあれば、通交断絶が大きな支障にはならなかっただろうと思われるのでしょう。(つづく)

写真:倭王興の墳墓と考える羽曳野市軽里大塚(白鳥陵)古墳(羽曳野市教育委員会提供)

『広報ふじいでら』第407号 2003年4月号より

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