大きな古墳と小さな古墳(ふじいでら歴史紀行26)

更新日:2016年03月31日

私が初めて古市古墳群に出会ったのは、高校1年の春でした。中学まで静岡に住んでいた私は、中学から歴史に興味を持ち、静岡で古墳や遺跡をまわっていました。大阪に引っ越し、高校まで自転車で通学の途中、大阪で初めてできた友人が応神陵古墳を指差しながら、「あれ古墳やで。」と教えてくれました。歴史に興味のあった私は、静岡で巡った古墳のイメージから、「あの山のてっぺんが古墳?」と聞き直していました。友人は笑いながら、「全体が古墳やで。」と教えてくれましたが、それでも私は山の上の一部分が古墳なのだろうと思っていました。その友人とともに応神陵古墳やはざみ山古墳や墓山古墳などを下校中に回り道したり、休日に古墳を巡ったりしていました。周濠を巡らせた古墳や前方後円墳を初めて見たときには、あまりの大きさに「山の周りに池がある。」と思ってしまいました。

古市古墳群や百舌鳥古墳群といった巨大な前方後円墳のある場所にずっと住んでいる人たちは、巨大な古墳に慣れてしまっているためか、墳丘の長さが100メートルを越すはざみ山古墳でもさほど大きくないようなイメージを持っておられます。また20~30メートルの円墳や方墳などは「大きい古墳があるから小さいのは重要でない」といった感想をよく聞くことがあります

古市古墳群には前方後円墳、円墳、方墳など墳丘の形や、大きさの違い、また周濠を持つものや持たないものなど、さまざまな違いが見られます。古墳には埋葬施設がしつらえられ、さまざまな副葬品とともに埋葬されました。墳丘は、葺石に覆われ、石の山のように造られ、各所に円筒・人・動物・家・武具など多彩な形の埴輪が立て並べられました。このような埋葬施設の構造や副葬品、埴輪などは、古墳の時期や規模によって差が認められます。これらは埋葬された人物の社会的地位に基づくものと考えられ、当時の社会構造を表出していると考えられます。また、古市古墳群の代表的な古墳は、築造当時において全国最大規模の古墳を含んでおり、まさに当時の大王のものであると考えられています。

古市古墳群や百舌鳥古墳群が築かれていった時代は、仁徳陵古墳に代表されるように古墳が最も巨大化し、古墳によって行われる儀礼がもっとも盛大化した時代です。こうした時代には、巨大な前方後円墳の周囲に小型の古墳が配置され、陪塚と呼ばれています。陪塚は、巨大な前方後円墳の周囲に企画的に配置され、時期によって墳丘の形に特徴を持っています。古市古墳群では、こうした陪塚の姿が特徴的にみられます。墓山古墳は墳丘の長さが225メートルの前方後円墳ですが、その周囲に4基の方墳が配置されていたことが明らかになっており、その内3基が現存しています。

墓山古墳の北側、野中の集落内にある野中古墳は、墳丘の一辺が37メートルの方墳です。1964年の大阪大学の発掘調査によって、甲冑11領を含む多量の副葬品が確認されています。野中古墳の墳丘の規模からは破格の副葬品が出土しており、墓山古墳の影響を考えなければ理解しがたい副葬品の質と量です。

また1988年の発掘調査で確認された西墓山古墳は、墳丘の一辺が20メートルと小さな古墳ですが、人体の埋葬痕跡が確認できず、その代わりに多量の刀剣と鉄製農・工具が人体埋葬と同じような形で納められていました。

古市古墳群にある古墳は、その墳丘の形や規模の違いにこそ当時の社会構造を知る上の貴重な情報を内包しています。百舌鳥・古市古墳群では現存する小さな古墳を含めて世界遺産に登録していこうと考えています。

墓山古墳と周辺の古墳

『広報ふじいでら』第478号 2009年3月号より

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