城山古墳2

更新日:2016年09月30日

城山古墳 島状遺構

▲内濠に造られた方墳状の祭壇施設

次に、城山古墳がはたして大王の古墳だろうかという問題に挑戦してみたいと思います。
まず、第一に確認しておきたいのは、城山古墳がいつごろ造られたのかということです。城山古墳からは、明治年間の発掘で墓室の構造や石棺の形態、そして一緒に出土した数々の副葬品が知られています。また、最近の発掘調査では、使用されていた埴輪が明らかになりつつあります。これらの情報を総合すると、城山古墳は4世紀の末ごろに造られたと推定されるのです。
4世紀末といえば、古市古墳群や百舌鳥古墳群の巨大な前方後円墳は、まだ姿を現していないのです。つまり、河内平野に最初に出現した巨大な前方後円墳が城山古墳だったのです。
城山古墳ができるまでの巨大な前方後円墳はすべて大和盆地に造られています。三輪山の麓の大和・柳本古墳群や平城宮の北側の佐紀古墳群にみる巨大な前方後円墳がそれです。
ところが5世紀になると、河内平野に次々と巨大な前方後円墳が造られ、古市・百舌鳥古墳群が形成されるのです。
同じ時代に造られた古墳のうち、最も大きいものが時の最高権力者つまり大王の古墳であるという前提が正しいとすれば、大王の古墳は4世紀末を境に大和から河内に移動したことになります。城山古墳はまさにこの端境期に造られたのです。
大王の古墳が大和から河内に移動したことについては、河内王朝論や騎馬民族征服説など華やかな論議があります。しかし、いずれの説も実態を説明するとき説得力に欠けるところがあり、まだ決着はついていないのです。城山古墳の内容を検討するときは、このような議論とのかかわりも視野におさめる必要があると思うのです。
城山古墳は、墳丘の長さが208メートルもありますが、同時期に造られたと推定される前方後円墳の中では飛び抜けた規模ではありません。石棺は非常に精巧で大変大きいものですが、ほかの古墳の棺の形態や大きさのデータが少なく比較資料に欠け、決定的な材料にはなりません。
城山古墳が大王の古墳かどうかを判断するポイントとしては、二重の濠と堤それに水鳥形埴輪を配した濠内の特殊墳丘および造出し等の墳丘外域の古墳構造に注目する必要があるのではないかと考えます。というのは、こうした墳丘外域構造は、時間の経過とともに変化し、かつ古墳のいわば「格」によって採用基準が設けられていたと推定されるのです。
たとえば、二重の濠と堤や造出しは、城山古墳で初めて造られるのですが、前者がその後の大王級の古墳に限って採用されるのに対し、後者は規模の大小や地域を限定せずに普及するのです。
城山古墳は、墳丘を核として、その周囲に二重の濠と堤をめぐらせ、さらに内濠には巨大な水鳥形埴輪を配した特殊墳丘を造っています。こうした企画はこれまでの巨大古墳になかったものであり、これを実現した背後には、新しい他界の観念が成立したと想像することもできるでしょう。それはともかく、城山古墳以降の大王の古墳と目される誉田御廟山古墳(応神陵)などの巨大な前方後円墳の多くに二重の濠と堤が採用されていることは、まぎれもない事実なのです。
こうしたことを考え合わせると、城山古墳は河内平野に初めて造られた大王の古墳とみなして間違いないと思われるのです。
5世紀は日本の大王が国際舞台に本格的に登場する時代です。城山古墳に葬られた大王はまさに彼ら倭の五王の先駆けとなった人物と想定できるのではないでしょうか。

教育広報『萌芽』第6号:平成5年2月号より

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