弥生時代以降の国府遺跡

更新日:2013年12月22日

(左)出土した土器(右)衣縫廃寺の巨大な塔心礎

(左)出土した土器
(右)衣縫廃寺の巨大な塔心礎

国府遺跡には現代へ続く人々の生活した痕跡が残されています。では縄紋時代以降の国府遺跡の姿に注目してみましょう。

国府遺跡は、石川流域の弥生時代の遺跡としては最も古く、前期中ごろにさかのぼることが確認されており、後期にいたるまで継続して集落が営まれていたことが確認されています。
縄紋時代の人骨が多量に確認され一躍有名になった国府遺跡ですが、これらの人骨のすべてが縄紋時代の人骨ではありません。その中には弥生時代の人骨も含まれていることが明らかになってきており、縄紋時代人と弥生時代人を比較する重要な資料となる可能性を秘めています。
平成7年(1995年)、史跡指定地内の発掘調査では弥生時代前期の井戸状の落ち込みを確認するとともに、指定地内の中央に位置する南北方向の谷からは多量のサヌカイト片が出土しました。これらのサヌカイト片は、石器製作時の石屑です。国府遺跡は二上山・石川に近く、サヌカイトの入手が容易であることなどから、国府遺跡はサヌカイトの交易を考えるうえで重要な位置を占めています。
古墳時代には、国府遺跡の位置する丘陵上に墳丘の長さが230メートルを測る巨大な前方後円墳市野山古墳(允恭陵)が築造され、国府遺跡の環境は一変します。指定地内の南北方向の谷地形は市野山古墳の造営を期に急激に埋没し、7世紀には現在の指定地内に古代寺院衣縫廃寺が造営されます。
現在、史跡指定地内に衣縫廃寺の塔心礎が残されており、当時の姿を想像することができます。
「国府」の名が表わすとおり、国府遺跡は奈良時代の河内国衙の有力な候補地であり、古代においても重要な遺構、遺物が確認できます。しかしながら、発掘調査面積も狭く国衙を復元しうる遺構は残念ながら確認できていません。
国府遺跡は、旧石器時代から縄紋時代・弥生時代を経て、7世紀には古代寺院が建立され、古代には河内国衙となった遺跡です。国府遺跡は南河内において最も古くより集落が営まれるとともに、長期にわたり集落が営まれ、現在にいたっており、旧石器時代から現在にいたる複合遺跡として、縄紋時代の人骨が多数確認された地点と古代寺院衣縫廃寺の伽藍想定地域を中心として国史跡に指定されています。
教育広報『萌芽』第13号 平成8年8月号より

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