鍋塚古墳
更新日:2016年09月30日
▲中央の森は仲津山古墳。鍋塚古墳はその左下
▲墳丘をとどめていた頃の高塚山古墳(大阪大学)
近鉄「土師の里」駅の改札を出ると、道路をはさんで正面に小さな山が目に入ります。これが鍋塚古墳です。樹木の生い茂ったその姿は、周囲の雑踏のせいか、ややこぢんまりとした印象を受けます。しかし、一辺50メートル、高さ7メートルの大形の方墳です。現状からでは確認できませんが、濠をともなっていた可能性があります。
発掘調査が行われていないため、埋葬施設や副葬品等は明らかになっていません。しかし円筒埴輪列や墳丘斜面に石を葺いた葺石があることが分かっています。また、墳丘の表面では、家・衣蓋・盾・靫形などの形象埴輪の破片が見つかっています。
鍋塚古墳の周辺には「沢田の七ツ塚」と呼ばれた中小規模の古墳が数多くありました。ところが戦後の宅地化等の工事のため、次々とその姿を消していったそうです。そして最後に残った鍋塚古墳が昭和31年(1956年)、国の史跡に指定され現在にその姿をとどめているのです。
姿を消していった古墳の中に高塚山古墳がありました。この古墳は鍋塚古墳の北側にあり、ほぼ同規模の方墳または円墳であったといわれています。発掘調査が行われ、その内容が明らかになっているので、概要を紹介したいと思います。
昭和29年(1954年)の工事に先立つ調査では、6メートルを超える長大な割竹形木棺とそれを覆った粘土槨が埋葬施設であることが分かりました。内部の副葬品はすでに盗掘にあっていましたが、鉄製武器や革盾・農工具類・ガラス小玉・管玉が残っていました。
また、墳丘が姿を消した後の昭和60年(1985年)に、大阪府教育委員会が近鉄線と府道堺大和高田線の間にわずかに残された空き地を調査し、一段目のテラス面とそこに立てられた円筒埴輪列を見つけました。
鍋塚古墳と高塚山古墳が造られたのは5世紀前葉のことです。南側にある大形の前方後円墳、仲津山古墳も同じころに造られており、両古墳は、その陪塚として密接な関係にあったといえそうです。
かつて「沢田の七ツ塚」と呼ばれた古墳の中で現在も地上に姿をとどめているのは鍋塚古墳のみになってしまいました。道を行き交う車や人とは対照的に、そのかたわらでひっそりとたたずむ姿を見るとき、悠久の歴史の流れをひしひしと感じずにはいられません。
教育広報『萌芽』第15号 平成9年7月号より
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