城山古墳1

更新日:2016年09月30日

城山古墳

▲空からみた城山古墳


城山古墳は藤井寺市の北西部津堂にある大型の前方後円墳です。城山という地名は中世の室町時代にこの古墳をお城として再利用したことにちなんだものでしょう。城山の前に津堂という地名を冠するのは、城山と称する古墳が全国にいくつもあり、これらと区別するため津堂城山古墳と呼んでいるのです。
さて城山古墳が属する古市古墳群は、墳丘長200メートルを超える巨大な前方後円墳が6基も含まれ、堺市の百舌鳥古墳群とともに古墳時代の代表的な大型古墳群として全国に知られています。これら大型古墳の多くは、天皇家の先祖のお墓として陵墓に指定されています。城山古墳も「藤井寺陵墓参考地」として治定を受けています。しかし、その治定の範囲は、変則的で後円部の一部にとどまっています。まず、このような治定となった経過から調べてみたいと思います。
陵墓の治定、つまりどの古墳がどの天皇のお墓であるかの選定考証は明治初期に開始されました。その考証は『延喜式』『日本書紀』や『古事記』などの古文献に記載されている陵地の地名と大型古墳の所在地を対照することから始められたようです。もちろん、江戸時代の国学者本居宣長や蒲生君平の研究成果は十分参考にされたものと推測されます。こうして明治20年ごろには陵墓が定まったのです。しかし、困ったこともあったようです。
近鉄恵我ノ荘駅の南西にある河内大塚山古墳は墳丘長が335メートルもあり、全国第5位の巨大な前方後円墳です。しかし、地名考証からは天皇陵としてははみ出してしまったようです。かといってこの屈指の巨大古墳を陵墓から全く外してしまうことはできない。そこで妙案が提起されました。これが「陵墓参考地」という治定なのです。
実は城山古墳はこのときの陵墓参考地の選にももれたのです。その理由は、中世の築城で墳丘が大きく削り取られ、大型の前方後円墳だという認識がされなかったのではないかと推測されます。
明治の末年、地元津堂村でこの古墳の命運を左右する決議がされました。それは、先年神社令によってとなり村の産土神社に合祀され、廃社となった村社八幡神社の石碑を建立しようという内容でした。そしてその石材は城山古墳のてっぺんから調達しようというものでした。
城山古墳の後円部頂に石碑にもってこいの石材が埋まっていることは村人の多くが知っていたようです。この石は古墳の埋葬施設である竪穴式石槨の天井石だったのです。石材の掘り出しにかかってまもなく巨大な石棺が現われ、人々を驚かせました。このニュースは新聞にも大きく報道され、多くの考古学者が駆けつけることになったのです。東京帝国大学の坪井正五郎博士や京都帝国大学の梅原末治博士等の報告が学会誌を飾り、城山古墳の石棺がこれまで知られていた石棺の中で最も大きく、しかも極めて精巧な作りであることが明らかにされたのです。
ところが、この当代一の石棺が埋められていた城山古墳は、陵墓や陵墓参考地ではなかったのです。宮内省は急きょ対応を迫られたのです。苦心の対応策は次のような内容をもっていました。石棺は現地に埋め戻し、城山古墳の後円部頂を「藤井寺陵墓参考地」として追加治定する。出土した鏡や刀剣等の副葬品は一括して国が買い上げる。このような経緯があって城山古墳の後円部頂が藤井寺陵墓参考地になったのです。
教育広報『萌芽』第5号 平成4年7月号より

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