河内の古墳の動向(No.48)

更新日:2017年07月08日

玉手山9号墳の埋葬施設(竪穴式石槨)

第二段階の大王墳の移動、すなわち、大和から河内への移動は、ご承知のように河内王朝論をはじめとする、華やかな議論の出発点となってきました。ところが、近年の発掘調査によって、積み上げられた資料を見ていると、必ずしも議論が尽くされたとは思えないのです。
ここでは、大阪地域の王の古墳がどのような変遷をたどるのか、といったことに目を向け、大王墳の移動の意味を探ってみようと思います。
大阪地域で最初の前方後円墳は、淀川の中流域の両岸に出現します。高槻市の岡本山古墳や枚方市の万年寺山古墳をその有力な候補と考えています。両地域の王が、ほかの大阪地域の王に先駆けて前方後円墳を築くにいたった背景は、たんに経済的優位が作用しただけではなかったはずです。それは、ヤマト政権の中枢の人たちが、淀川の交通路としての重要性を評価していたことの表われであろうと理解しています。
北摂と北河内に続いて、西摂東部(池田・豊中市)、中河内(東大阪・八尾市)、南河内に前方後円墳が続々と築かれていきます。
とりわけ、南河内の玉手山古墳群は注目される存在です。古墳群は、2期の玉手山9号墳に始まり、4期に群形成を終わります。全体で14基の前方後円墳から構成され、4ないし5系列の王が玉手山丘陵を共同の墓地にするように古墳造りを進めた様子をうかがうことができます。南河内はこの玉手山古墳群のほかにも石川谷の両岸地域(羽曳野市・富田林市・河南町・太子町・河内長野市)にいくつかの前期古墳が確認され、前期末の段階では、南河内は、大阪地域で最も前方後円墳が集まる地域となっていたのです。
ところが、古市古墳群の津堂城山古墳や、百舌鳥古墳群の乳の岡古墳が築かれだすと、南河内では、前方後円墳が築かれなくなるのです。ほかの地域でも、規模が縮小したり、前方後円墳を造らず、前方部が短い帆立貝形や円墳に変わるという現象がみられるのです。
こうした劇的な変化を南河内や和泉の王が勢力を増し、古市古墳群や百舌鳥古墳群を築くにいたったと解釈することもできるでしょう。しかし、前期段階の代表的な古墳群である大和・柳本古墳群と玉手山古墳群を比較すると、両者の質量の違いを無視することはできないと思うのです。量的な相違とは、古墳の規模であり、副葬品の種類・数量のことです。質的な違いとは、古墳群の構成原理に由来すると考えられることなのです。

写真:玉手山9号墳の埋葬施設(竪穴式石槨)(柏原市立歴史資料館提供)

『広報ふじいでら』第298号 1994年3月号より

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