弥生時代に戦争が始まった(No.69)

更新日:2017年07月08日

縄紋時代(右端の列)と弥生時代(右端列以外)の石鏃の比較

「弥生時代の石鏃(せきぞく)が縄紋時代に比べて大きくなったのは、弓矢を武器に使ったからだと聞いたことがあるのですが」文化財講座でいつも顔を合わせる男性からの質問です。
質問というより正解そのものなので、少し、補足の説明をしてみたいと思います。展示している縄紋時代と弥生時代の石鏃もこのように見比べていただけると企画冥利(みょうり)につきるというものです。
弥生時代の石鏃が縄紋時代のものと比べて飛躍的に大きくなり、弓矢が狩猟の道具から人を殺傷(さっしょう)する武器に転用された可能性を最初に指摘したのは、国立歴史民俗博物館の副館長の佐原眞さんでした。佐原さんは、石鏃の大型化と大量生産は、「魏志倭人伝」にみえる「倭国大いに乱れる」の記事を証明する大きな手掛かりだと考えられたのです。今から30年も前のことです。
その後、日本各地では、大規模な発掘調査が進められ、佐原さんの推測が正しかったことが明らかになってきています。
その一例としては、弥生時代のムラの構造が挙げられます。弥生時代の南関東以西の大規模なムラは、たいていムラのまわりに濠(ほり)と堤をめぐらした防御施設をもっていることが分かってきたのです。愛知県朝日遺跡では、三重の濠に加え、その外側に丸太を使ったバリケードまでつくっているのです。
外敵に備えたムラの構造、大量に蓄えられた弓矢などの武器、弥生時代が縄紋時代になかった戦争の時代に突入したことを示しています。もちろん縄紋時代にもあらそい事はあったことでしょう。しかし、ムラ全体を要塞のようにしたり、日ごろから武器を準備することはなかったのです。
では、なぜ弥生時代になって、戦争が起こるようになったのでしょう。最大の理由は、水田稲作の成功によって、ムラに守るべき財産が生まれたということでしょう。縄紋時代のムラには、生活を支える以上の大きな蓄えや富がなかったのです。つまり、戦争の経済的動機が薄かったのです。
最近の調査では、濠をめぐらすムラは、弥生時代の開始とほぼ同時に出現することが分かってきました。水田稲作は、人々の生活に豊かさをもたらしました。しかし、同時に稲の生産に欠くことのできない土地や水をめぐる、ムラとムラ、ムラ連合対ムラ連合の戦争という深刻な副産物も持ち込んだのです。
「倭国大いに乱れる」とは、日本各地で頻発した戦争の状態を表現した記事と解釈されるのです。

写真:縄紋時代(右端の列)と弥生時代(右端列以外)の石鏃の比較

『広報ふじいでら』第319号 1995年12月号より

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