最初の発掘調査(No.117)

更新日:2013年12月18日

大正6年の発掘風景(濱田『河内国府石器時代遺跡発掘報告』1918年より)

福原潜次郎さんの採集品にヨーロッパの旧石器、チョッパーあるいはチョッピングツールと呼ぶ原始的な石器に似たものが含まれていることに濱田耕作さんは興味を覚えたのです。もしこれがヨーロッパと同時代のものだとすれば、考古学・人類学の常識をくつがえす大発見なのです。
大正6年(1917年)6月、京都帝国大学による国府遺跡最初の本格的な発掘調査が行われることになりました。もちろん調査の主査は、濱田耕作さんがつとめました。調査はこれまでにたくさんの遺物が採集されている段丘の下(Aトレンチ)と上(Bトレンチ)に一ヶ所ずつのトレンチを設けて進められました。
掘り進めると、両トレンチともよく似た層序で推移することが分かってきました。つまり、地表から第1層(黒色土)、第2層(黒色土)、第3層(砂利層)と変化するのです。第1層と第2層は、土の色では区別がつかないのですが、前者は現代の耕作によって掘り返された土層で、第2層はもともとの堆積状態を保った土層と判定されました。後者は現代風にいうと遺物包含層ということになります。第3層の砂利層はその一部をさらに掘り下げ、遺物が含まれない地層であることを確認しています。
AとBのトレンチでは、第2層の厚さがBがAの2倍の60センチメートルもある違いがありました。Bトレンチの第2層ではその上部には古瓦が含まれるのですが、下部にいくにしたがってそれが見えなくなるということも指摘されています。
この調査では、発掘のきっかけとなった砂利層下部の粘土層までは掘り下げることなく終わってしまいました。というのは、第2層下部から埋葬された3体の人骨が見つかるという意外な成果があったからです。調査の主眼が当初の旧石器の存否確認から人骨の調査に移ってしまったというのが実情だったようです。
大阪の河内で古人骨が発掘されたというニュースは、衝撃波のように全国に伝わりました。というのは、当時日本人のルーツをめぐる議論が盛んだったことがあったのです。ところが、古人骨の資料は貝塚が多く残された東日本に偏っていて、貝塚の発達しない西日本では古人骨の資料が極めて少なかったのです。とりわけ、近畿地方では皆無に等しかったのです。そういうわけで国府遺跡における古人骨の出土は、まさに渇望されていたニュースだったのです。
この歴史的な発掘調査は、わずか10ヵ月後の大正7年(1918年)3月に報告書が刊行されます。その報告書をひも解いて、発掘調査の成果を見てみましょう。(つづく)

写真:大正6年の発掘風景(濱田『河内国府石器時代遺跡発掘報告』1918年より)

『広報ふじいでら』第367号 1999年12月号より

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