古人骨の多量出土(No.120)

更新日:2013年12月18日

人骨の出土状況(濱田・辰馬『河内国府石器時代遺跡第二回発掘報告』1920年より)

濱田耕作さんの発掘調査よって古人骨が出土したことは、衝撃的なニュースとなりました。貝塚の発達しない近畿地方では、その出土があきらめかけられていたからにほかなりません。当時、盛んであった日本人のルーツ探索に、近畿の古人骨の出土が渇望されていたのです。それゆえ著名な人類学者や考古学者は、一斉に国府遺跡の存在に注目したのです。
濱田さんの発掘から、わずか2ヶ月後には、東京帝国大学の鳥居龍蔵さんが発掘を行い、それを皮切りとして大正10年(1921年)までの間に、都合9回の発掘調査が、濱田さんのB地点を中心に実施されたのです。
これらの発掘調査では、合計72体もの人骨が出土したのですが、残念なことに、一部を除いてその全容は未報告に終わったものが多かったのです。
こうした事態について、京都帝国大学の鈴木文太郎さんは、「考古学を学問として確立するには、一遺跡から発掘した遺物は、地層にしたがって細大漏らさず取り上げ、人骨が出土したときは、細心の注意を払って取り上げ、遺物との関係を究めなければならない。人骨のみを濫掘し、また、整理・報告をないがしろにするような風潮は、貴重な遺跡の荒廃を招き、遺物を散逸させるに等しい。これでは考古学の進歩は望むべくもない」と強い警鐘を発しています。これは当時の人骨発掘競争のような状況に対するものですが、現代にも通ずる発言だろうと思います。
大阪毎日新聞社社主の本山彦一さんに請われて、近畿地方の古代遺跡を順番に調査していた東京帝国大学の鳥居龍蔵さんは、大正6年(1917年)8月に国府遺跡を訪れています。鳥居さんは、濱田さんのBトレンチの北西側で発掘調査を実施しています。ここでは4体の人骨が出土し、人骨の調査を同じ東京帝国大学の小金井良精さんに依頼しました。
発掘後の講演会で鳥居さんは、国府遺跡に触れ、ケールン(石塚)に葬られたものや土器や石鏃を副葬した事例を紹介しています。また、縄紋土器と弥生土器の関係については、両者が時間的な先後にあるのではなく、共存したものとみるべきだと説いています。つまり、縄紋土器を使用するアイヌ人のムラに、弥生土器をもつ「固有日本人」が侵入して、両者が混在した姿をイメージしたのです。
鳥居さんの発掘した4体の人骨を調査した小金井さんは、これらを総括して「日本人とは著しく異なり、アイノ貝塚より出土した人骨及び現代アイノに近似する」と述べています。これに対し、鈴木文太郎さんは、アイヌ人には遠く、むしろ現代日本人に近いと小金井さんの見解を真っ向から批判します。
2人の高名な人類学者が同じ国府遺跡の人骨をめぐって、180度異なる見解を披露したのです。(つづく)

写真:人骨の出土状況(濱田・辰馬『河内国府石器時代遺跡第二回発掘報告』1920年より)

『広報ふじいでら』第370号 2000年3月号より

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