国府ムラの隣ムラ(No.131)

更新日:2013年12月18日

大阪周辺の縄紋時代遺跡の分布図

縄紋前期の国府ムラの人口は、8人から26人という数字が得られました。かなりの幅がありますが、いずれにしても小規模なムラだったことには変わりがないようです。
縄紋前期の国府ムラが営まれていたころ、周辺の状況はどうだったのでしょうか。つまり、隣ムラはどの辺にあったのか、言葉を替えると、当時の人口密度はどのくらいであったのかを考えてみようと思います。
近在の縄紋前期の遺跡をあたっていくと、国府遺跡から、ほぼ10キロメートル圏内にいくつかの遺跡が見つかります。富田林市の錦織遺跡、八尾市の恩智遺跡、香芝市の狐井遺跡、鶴峯荘第2遺跡などがそれです。ただ、国府以外の遺跡は、土器の出土が報じられているだけで、その実態はまだよく分かっていないのです。ですからこれらの遺跡と国府遺跡の関係を論じることは難しいのですが、予測的に次のように考えています。
一つはこれらの遺跡はそれぞれ別の集団が残したもので、一時点をとってみれば、遺跡の数だけムラがあったとする考えです。
これに対して、集団は一つで、ムラが時期的あるいは季節的に移動を繰り返した結果、複数の遺跡が残されたとする考えもあります。
どちらが正しいか、積極的に判断する材料はありませんが、国府以外の遺跡の遺物出土量があまり多くないことを重視すれば、後者の考えに魅かれるものがあります。
大阪府下に目を広げてみると、能勢の地域でいくつかの縄紋前期の遺跡が見つかっています。これらも一つの集団が残した遺跡群だとすると、大阪の北部と東南部に一つずつの集団がムラを営んでいたことになります。とすると、当時の大阪府下の人口は多くて50人、少なく見積もると20人足らずということになります。現在の大阪府の人口が約880万人ですから、実に17万から44万分の1の人口だったのです。
こうしてみてくると、非常に寂しい情景が目に浮かんできますが、誤解がないようにいっておきます。彼らは決して孤立した存在ではありませんでした。彼らの使った土器や石器は瀬戸内沿岸や山陰と共通の紋様や形をもっています。けつ状耳飾りにいたっては、中国大陸にまでその淵源が求められる装飾品なのです。
つまり、彼らの交流の範囲は、ムラの規模からは想像できないくらい広く、それは彼らのゆとりの証でもあるのです。
今、先進国と呼ばれる国々では、年間労働時間を2000時間以内に押さえ、生活にもっとゆとりを生み出そうと努力しています。1日平均にすると約5.5時間です。ところが、現代でも採集狩猟生活を続けているアボリジニやイヌイットの人々の労働時間は、経済人類学者によれば、平均4時間を切るとのことです。
縄紋人と現代の採集狩猟民はまったく同じではありませんし、それに先進国の人々とを単純に比較することは乱暴かもしれませんが、人間としての豊かさを考えると、人類の進歩とはなんだったのかと考えさせられ、なかなか複雑なものがあります。(この項おわり)

図:大阪周辺の縄紋時代遺跡の分布図

『広報ふじいでら』第381号 2001年2月号より

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