濱田耕作1(No.174)

更新日:2021年11月26日

 今号から新しいテーマ「考古学・人類学の先達と藤井寺」に沿ってお話をしていきたいと思います。

 明治維新後、日本の近代化は各分野で急速に進みました。そのなかで考古学・人類学も欧米の学問体系を吸収して発展しました。両学問の黎明期から幾人もの先達が藤井寺市内の遺跡を学問のフィールドにして活躍しています。彼らの足跡を追ってみようというのが今回からの企画です。

 第1回は日本に近代考古学を根付かせた濱田耕作(はまだこうさく)さんです。なお、以下の文中では敬称を省略させていただきます。

 濱田耕作は、1881年(明治14年)に濱田源十郎・うめ子の長男として大阪府岸和田市に生まれます※1。北野中学校(現北野高校)に進みますが、5年生のとき、放校処分になり、東京の早稲田中学校に入りなおします。卒業後、第三高等中学校(後の第三高等学校=京都大学)に進み、さらに東京帝国大学文科大学で西洋史学を専攻します。卒業後、同大学の大学院に学び、1909年(明治42年)京都帝国大学文科大学の講師として赴任します。このとき濱田は28歳でした。

 1913年(大正2年)同大学の助教授に就任すると同時にヨーロッパ(イギリス、フランス、イタリア、ギリシャ)留学に出発します。ヨーロッパの先進的な考古学・美術史学を学び、1916年(大正5年)に帰国します。帰国後、濱田は直ちに京都帝国大学文科大学に日本初の考古学講座を新設し、組織的な考古学調査と後進の育成にとりかかりました。

 濱田の調査フィールドは、日本国内はもとより、朝鮮半島から中国大陸におよびます。これらの調査の成果は、『京都帝国大学文学部考古学研究報告』シリーズとして順次公刊され、後学の研究者の範となりました。

 1917年(大正6年)京都帝国大学教授に昇任し、1937年(昭和12年)には同大学の総長に就任しました。しかし、翌1938年(昭和13年)に体調を崩し、尿毒症を併発し725日に57年の生涯を閉じました。

 濱田の主要な著作目録を見ていると、興味深い傾向に気付きます。1898年(明治31年)から1904年(明治37年)の旧制中学生から大学生までは考古学に関する著作が目立ちます。

 1905年(明治38年)から1913年(大正2年)ヨーロッパ留学に出発するまでの間は、美術史関連の著作を集中して発表しています。

 留学中の1914年(大正3年)以降、1926年(大正15年)までは考古学関連の著作が中心になっています。

 その後、晩年にいたるまでは、考古学と美術史分野の著作を相半ばして発表しています。

 濱田は青年期に関西の遺跡や遺物に触発されるように考古学の道に入っていきました。後に大学で西洋史学を専攻するなかで、美術史家としての目を涵養します。ヨーロッパ留学では近代考古学の基本を学び、帰国後、日本において、学問としての考古学の定立をめざして数々の発掘調査を実施し、その報告書を公刊することでこれを実践します。昭和に入ると、考古学と美術史学にわたる該博な知識と審美眼を駆使して、多くの論文や評論を世に問いました。(つづく)

(文化財保護課 天野) 

広報ふじいでら424 2004.9

 

※1 出生地は羽曳野市古市という資料もあります(春成秀爾2016「濱田耕作略年譜」『通論考古学』岩波文庫)。

東京人類學雑誌表紙
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