濱田耕作2(No.175)

更新日:2021年11月26日

 前回は濱田の略年譜を紹介しましたが、今回はいよいよ濱田と藤井寺のかかわりに話を進めましょう。

 濱田が学術雑誌にはじめて投稿した報文は「考古材料」というタイトルで『東京人類學會雑誌』148号に掲載されました。濱田17歳、1898年(明治31年)のことでした。羽曳野市誉田(こんだ)丸山古墳で採集した形象埴輪(けいしょうはにわ)及び国府(こう)遺跡で採集した石器と縄紋土器を報じた短文でした。図入りで紹介した誉田丸山古墳の埴輪を「就中御陵ノ前面左方ノ陪塚(ばいづか)ニテ余ガ発見セル埴輪ノ破片ハ頗ル偉大ナルモノニシテ其如何ナルモノナリシヤヲ知ルニ苦ム」異様に大きい形象埴輪を発見した興奮をそのまま伝えた瑞々しい文章です。

 また、その9年前に山崎直方(やまざきなおまさ)によって発見が報じられた国府遺跡にも立ち寄って土器や石器を採取したことも記録しています。

 この最初の報文から2年後の1900年(明治33年)濱田は当時の藤井寺村の母方の親戚にあたる藤野家に1週間滞在して周辺の遺跡踏査(とうさ)を行っています。その報文は「南河内地方に於ける石器時代遺跡と古墳」と題して『東京人類學會雑誌』174号に掲載されました。第三高等中学校(後の第三高等学校=京都大学)に在学中のことでした。

 その中で、国府遺跡の石器について、それは従来いわれていた粘板岩ではなく、二上山山麓に産するサヌカイトを材料としていて、それは近畿一円の石器時代遺跡の石器に共通しているという重要な指摘をしています。

 加えて、古市古墳群内の古墳を中心に31箇所の古墳及びその伝承地の踏査記録を報告しています。その中で、三ツ塚古墳と河内大塚古墳の記事が目にとまります。というのも、この二つの古墳の築造時期については現在でも議論があるからです。

 濱田は三ツ塚古墳に「埴輪円筒を囲繞せり」、河内大塚古墳に「埴輪の破片各部に散乱す」と記しています。両墳に埴輪が使用されているとすれば、築造時期の議論は、ぐっと絞り込んで進めることができるのです。三ツ塚古墳に関しては修羅(しゅら)の年代、河内大塚古墳については、被葬者である大王の人物名の特定という問題に直接かかわってきます。

 これら初期の報告からは、すでに一世紀以上が経過したのですが、なお、現代の議論に濱田は現役で参加しているのです。

 1916年(大正5年)ヨーロッパ留学から帰国した濱田は、京都帝国大学文科大学に考古学講座を創設し、早速宮崎県西都原(さいとばる)古墳群や北九州の装飾古墳の調査にとりかかります。そして、翌1917年(大正6年)には国府遺跡の発掘調査に向かうのです。

 濱田が国府遺跡の発掘を決意した経過をたどってみましょう。もちろん、国府遺跡については、西日本で稀有の石器時代遺跡として、それまでに幾度も訪れ、その報文も発表していた濱田ですから、この遺跡に注目していたにちがいはありません。それを決定的にしたのは、京都帝国大学講師の喜田貞吉(きださだきち)でした。喜田が濱田の教室に持ち込んだ国府遺跡採集の石器には、ヨーロッパの旧石器にそっくりな大形の石器が含まれていたのです。(つづく)

(文化財保護課 天野)

広報ふじいでら425 2004.10

埴輪図

東京人類學雑誌に掲載された誉田丸山古墳の埴輪

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