巨大古墳の築造年代1(No.162)

更新日:2020年12月21日

 辛亥年(しんがいねん)、471年に作られた鉄剣が稲荷山古墳におさめられるまでの年数をどれほど見込むかはなかなか難しい問題です。ですが乎獲臣(おわけのおみ)の生存期間と古墳の築造に要した期間を考えると、20年前後と仮定しても大過ないのはないでしょうか。そうすると、この古墳から出土したTK47型式の一群の須恵器は、490年前後、5世紀末に作られたということになります。それは同時に、この型式の須恵器と一緒に使われていた円筒埴輪や土師器にも実年代を与える根拠が見いだされることになるのです。

 倭の五王時代の実年代を考える上で、もう一つ注目しているデータがあります。それは年輪年代法によるものです。樹木の年輪は1年毎に確実に作られていくます。しかし、年輪の幅は、その年の気候のよしあしで広がったり、狭まったりします。年輪年代法では、この性質を応用して、年輪幅の変化を現代から年代をさかのぼってグラフ化し、遺跡などから出土した木製品の年輪と重ね合わせて木製品の伐採年を調べるのです。

 奈良県平城宮下層の古墳時代の溝から、木製品とTK73型式という初期須恵器がいっしょに出土しました。この木製品を年輪年代法で調べたところ、412年に伐採した木で作られていることが分かったのです。この木が伐採され、加工され、溝にすてられるまでの年数と、須恵器が作られてから、使われ、そしてすてられるまでの年数をほぼ等しいとみると、TK73型式の須恵器の生産・使用の年代の一点が412年にあることが知られたのです。

 稲荷山の鉄剣銘と平城宮下層の木製品によって、5世紀の実年代を考える定点がもたらされたのです。この二点をもとに須恵器型式と円筒埴輪型式に年代を割り振ると、巨大古墳が造られたおおよその実年代が浮かび上がってくるのです(表参照)。

 次の課題は、倭の五王の墳墓をつきとめるということでした。この問題を考えるにあたって、解決しておかなければならないことがあります。古墳は葬られる王が自ら生前に築いたのか(寿墓)、それとも後を継いだ王が築いたのかという問題です。難しい問題で確たる証拠はないのですが、「仁徳紀」や誉田御廟山古墳の不自然な占地を考えると、陵地の選定や古墳の基本設計の選択、一部の基礎工事までは先王が行い、完成までの仕上げの工事や葬儀を後継王が行ったのはないかと今は考えています。

 おそらく、倭の五王は先王の古墳を完成させ、名実ともに後継王としての威信を内外に示す事業の一環として、中国王朝に初遣使したのではないかと思うのです。倭王武は稲荷山古墳の鉄剣銘からすると471年にはすでに在位しているにもかかわらず、初めての遣使は477年なのです。この6年の差は先王興の墳墓造りに要していた期間ではなかったのかと考えるのです。

 とすると、各倭王の最初の遣使年は、先王の古墳の完成年と考えられるのです。讚の最初の遣使は413年あるいは421年ですので、讚の先王(名は不明)の墳墓は誉田御廟山古墳(応神陵)が候補になります。珍の最初の遣使は438年ですので、先王讚の墳墓は大仙古墳(仁徳陵)、済の最初の遣使は443年ですので、珍の墳墓は土師ニサンザイ古墳、興の最初の遣使は460年ですので、済の墳墓は市野山古墳(允恭陵)、武の最初の遣使は477年ですので興の墳墓は軽里大塚(白鳥陵)古墳だと考えられるのです。

 ただし、武の後継王は遣使していないのでこの理屈から武の墳墓を推定することはできません。したがって、別の方法を探さなければなりません。(つづく)

2003.09

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