倭の五王と大阪6(No.171)

更新日:2020年05月06日

 5番目は河内湖の西部、上町台地につくられた巨大倉庫群の問題です。

 昭和62年(1987年)の年末、大阪市中央区法円坂町の市立中央体育館跡地の発掘調査で巨大な倉庫群が見つかったという大きな新聞記事がでました。このときは2列で12棟という発表だったのですが、のちに4棟が加わり、合計16棟も見つかったのです。

 まず、注目されたのは、この倉庫の大きさです。1棟当たり、90平方メートルもある高床式の掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)で、同形同大の建物が列をなして整然とつくられていたのです。この法円坂遺跡の倉庫は、古墳時代の一般的な倉庫の45倍、奈良時代の3倍もあって、正倉院の倉に匹敵する破格の大きさだったのです。それが5世紀後半につくられたものだったということで大きなニュースになったのです。

 もちろん、見つかった倉庫は調査区内だけの話ですから調査区外には、さらに何棟かの倉庫、これらを管理運営するための建物群、塀や柵といった区画施設などがあるだろうということは容易に想像されるのです。これらの建物群がつくりだした景観はまさに壮観の一言につきたでしょう。

 これらの建物群が一体どんな目的で作られたのか非常に興味をそそられます。難波津に陸揚げされた物資を保管するためのものなのか、朝鮮半島への出兵に備えた武器庫だったんでしょうか。大阪大学の都出比呂志さんは、倉庫の全容量は米にすると三万三千石に達すると試算し、その収容物は米だけでなく、布や塩、鉄素材や武器に及んだと考えられています。ちなみに米の収容量を奈良時代の税率、反当たり75升で計算すると、実に10数万町歩の田からの徴収分に匹敵するというから驚きです。

 さて、こうした倉庫の機能だけをみていては、この巨大倉庫群の謎は解けないのではないかと思っているのです。で、もう少し考えてみたいことがあります。

 注目したいのはこの建物群のつくられた場所です。今はビルが林立する大阪の官庁街になって、元の地形が分かりづらいのですが、5世紀の上町台地は、南から突き出した細長い半島状になっていて東側には河内湖、西側には大阪湾が迫っていたのです。さらに北側には河内湖と大阪湾を結ぶ難波の堀江とよばれる運河が同じ時代に開削された可能性があり、難波津という港湾施設やそれ付属する迎賓施設なども近接していたことも考えられるのです。

 とすると、倉庫群のあった上町台地の最高所は、標高20mを超えますので、東、北、西からまさに仰ぎ見るような位置にあったのです。この台地上につくられた巨大倉庫群の威容は、大阪湾に到着した艦船の乗客や難波津に上陸した人々の目に印象深く焼き付いたことでしょう。

 倉庫機能を重視すれば、港湾施設としてもっと低地につくるほうが合理的です。それをわざわざ高所にもっていたことは、別の意図があったように思うのです。その主眼は、倭王権の権威を威圧的な景観としてつくりだしたのはないかと考えているのです。

 おことわりしておきたいのですが、法円坂遺跡の巨大倉庫群を巨大な前方後円墳に通じるような政治的記念碑としてとらえる私の考えは、今は少数意見です。法円坂交差点の北東に巨大倉庫1棟が復元展示されています。その大きさを実感しながら、ご検討いただくのも一興かと思っています。

2004.6

大阪市法円坂遺跡 復元巨大倉庫

復元された巨大倉庫

(大阪市法円坂遺跡/大阪市文化財協会)

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