長持山古墳の石棺

更新日:2013年12月22日

墳頂にあった長持山古墳の石棺(京都大学総合博物館)

墳頂にあった長持山古墳の石棺
(京都大学総合博物館)

今回から、古墳に埋められた石棺の話を何回かしてみようと思います。藤井寺から出土した石棺としては、津堂城山(つどうしろやま)古墳の長持形(ながもちがた)石棺と長持山(ながもちやま)古墳と唐櫃山(からとやま)古墳の家形石棺が有名です。
最初に学会に紹介された石棺は、長持山古墳の家形石棺です。この石棺は、同じ長持山古墳からもう1基の別の石棺が見つかったため、2号棺とも呼ばれています。報告者は、イギリス人のウイリアム・ゴーランドという人物です。ゴーランドさんは、明治初期の日本政府が西欧の最新技術を積極的に取り入れるために招へいした専門家の一人だったのです。彼は明治5年に来日し、大阪の造幣局に冶金学の技術指導者として16年間日本に滞在しました。
彼は公務のかたわら、日本の今でいう古墳時代の遺跡に大きな興味をいだいたようで、全国各地の古墳めぐりをしています。なかでも大和と河内にはたびたび出向き、詳細な観察記録を残しています。この記録は、イギリスに帰国後、いくつかの論文にまとめられて発表されました。
長持山古墳の石棺は、「日本のドルメンとその築造者たち」(原文は英文)のなかで、道明寺近くの墳丘に石棺がほぼ全形を露出していて、まわりを丹念に調査したらガラス玉1個と少量の朱を見つけたと記されています。さらに当時としては貴重な写真が添えられています。
この写真を見ると、石棺の3分の1ほどが長持山古墳の墳頂部からせり出しているところが写っています。また、蓋石(ふたいし)の縄掛け突起(なわかけとっき)も鮮明に写っており、2号棺の特徴がよくつかめます。2号棺の露出がいつごろ、どのような経緯で起こったのか、つまびらかではないのですが、長持山という古墳の名前もこの石棺に因んだようなので、かなり古くからであったようです。
戦後になって、大阪府教育委員会と京都大学が長持山古墳を発掘調査しています。このときゴーランドさんの報告した石棺の北側で、もう1基の別の石棺(1号棺)が見つかったのです。この1号棺とすでに露出していた2号棺とは刳抜き(くりぬき)式であることは共通するのですが、形に違いがありました。一番違っている点は縄掛け突起のつく位置と個数です。2号棺は屋根形をした蓋石の屋根部分に二対計4個が造り出されていたのですが、新しく見つかった1号棺は、蓋と身の両方の小口に大きな突起が一対造られていたのです。

教育広報『萌芽』第7号:平成5年8月号より

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