石棺の産地

修復された長持山古墳の石棺(左:1号棺、右:2号棺)

修復された長持山古墳の石棺
(左:1号棺、右:2号棺)

長持山古墳から見つかった2基の石棺のうち、1号棺を小口側から見ると、蓋は三角形、身の方は逆台角形のような形をしています。2号棺の蓋もやはり三角形をしているのですが、身の方は長方形に近く、全体としては箱形をしています。
また、両方の石棺とも身と蓋の合わせ目は、印籠(いんろう)型式のていねいな仕上げが施されています。身の上面には凸面を造り出し、蓋の底面には逆に凹面を造り、両者がぴったりと組み合うようになっているのです。とくに1号棺の身と蓋の組み合わせは、ほとんどすき間なく造られており、熟練した石工(いしく)の作品であることが分かります。
1号棺は全体に黒っぽい色をしています。一方、2号棺は蓋が暗い灰色、身がピンクがかった白色をしています。両者の色の違いは、石材の産地が異なることが原因だと考えられてきました。つまり、1号棺は九州の阿蘇山付近でとれる凝灰岩(ぎょうかいがん)、2号棺は二上山の凝灰岩を石材としていると信じられてきたのです。
ところが最近、熊本大学の渡辺一徳さんと宇土市教育委員会の高木恭二さんによって石材に含まれるガラス成分の分析が進められ、新しい研究成果が発表されたのです。これによると、1号棺は従来の推定のように阿蘇溶結凝灰岩(あそようけつぎょうかいがん)だったのですが、2号棺も同じく阿蘇溶結凝灰岩を石材としていることが確実になったのです。2基とも遠く九州からはるばる大阪に運ばれてきたのです。
ただ、両石棺は、同時期に造られたものではなく、まず1号棺から造られ、少し後に2号棺が造られた可能性が高いと考えます。
これらの石棺が納められていた長持山古墳は、すぐ東側にある大型前方後円墳市野山古墳の「陪塚(ばいづか)」と考えられ、5世紀後半に築造されたと推定されています。市野山古墳の周辺には、長持山古墳のほかにも「陪塚」と考えられる小型の古墳が数多く造られています。これら「陪塚」に葬られた人々は、生前に市野山古墳の主人公と深いつながりをもっていたのでしょう。
長持山古墳には、中国から輸入した鏡、最新式のよろい、挂甲(けいこう)、豪華な金メッキを施した馬具などが納められています。また、その棺は遠く九州から取り寄せているのです。こうしたことを考えると、長持山古墳の石棺に葬られた人物は、当時の中央政権の中枢で活躍していたことが想像されてくるのです。

教育広報『萌芽』第8号:平成6年2月号より

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